ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (77) 外山脩
関屋は以前、文部省の公用で新潟県に出張したとき、県内で小作争議が発生、これを調停したことがあった。 小作争議は、全国的に頻発していた。 ここで、また余談を挟むが。── 右の新潟県で起こった小作争議の中に、真島家という豪農のそれがあった。 その争議のとき、小作人の先頭に立ってムシロ旗を掲げて真島家に押しかけた青年がいた。それが、ナント、同家の当主の実弟であった。これは世間を唖然とさせた。 その実弟の真島平三郎は、東京大学と北海道大学を出た法学士・農学士であった。が、後にブラジルに渡り、放浪の生活を送った。いつも見窄らしい身なりをしていた。が、権力に対する反骨精神は強烈であった。 戦後のことになるが、晩年は、サンパウロ新聞の編集部に身を寄せていた。一九六六年、交通事故で没した。七十代半ば過ぎであった。 その事故死の折、補充のため採用されたのが筆者である。真島老人が生活していた社内の片隅の小部屋も引き継いだが、内部の索莫たる様には哀しさを誘われたものだ。自炊に使用したらしい汚れたアルミニュームの安物の鍋や皿が散らかっており、粗末な寝床に横になると……蚤か虱かダニか……ともかく、その種の虫が無数に襲ってきた。 これが豪農の家に生まれ、二つの帝国大学を出た学士、日本小作争議史上の侠気の士の最後の棲家であった。 壁ぎわに置かれた箱の上に、日本からの航空便を束にしたものが放ってあり、差出人の住所、名前の中に「新潟県」「間島」の文字があった。家族から帰国を勧める手紙であったらしい。 間島老に関する余談は、ココまでとして、話を戻すと、関屋は小作争議が頻発する中、欧州を視察、二、三の国で偏向思想に対する防波堤の役割を果たしている青年運動を見聞、自国への導入を思い立った。 政治家、軍人、実業家、教育家など多数が関屋の構想に賛同、協力した。その中には鈴木貫太郎(海軍軍令部長)、宇垣一成(陸軍大臣)、永田鉄山(陸軍歩兵三連隊連隊長)らの名があった。 日本青年協会の発足に際しては、鈴木は顧問、宇垣は会長、永田は理事を引き受けた。 しかし協会は、当初は資金がなく本部も設置できず、困惑するほどであった。それを知った永田が三連隊の施設の貸与を申し出た。これが、青年協会が連隊の施設内にあった所以である。 吉岡省は一九三〇年の講習会の後も、毎年、上京し協会を訪れていた。 やがてブラジルに移住することになった。が、これは協会の目的とは異なった。しかし関屋は「思想問題は、当分の目的であり、長期的には会員の何人かが、ブラジルで活躍することは、協会の本意に反するものではない」と認めてくれた。 渡航の年、吉岡は東京で準備をするため、冬から春にかけて協会に寄宿した。この時、三連隊所属の安藤という中尉と知り合う。独身士官の宿舎に居た安藤は、そちらは冬の間も暖房禁止であったため、冷え込む夜など、やってきた。吉岡が小使い室で火を焚いていると、窓をコツコツと叩き、戸を開かせ中に入って暖をとりながら、雑談をした。「頭は切れ、育ちも良さそうだが、コチコチの右翼」という印象を受けた。 「いずれ、共産党員が軍部内に巣食い、軍を乗っ取ることになる」 と安藤は心配していたという。 この中尉が三年後、同志とともに二・二六事件を惹き起す安藤輝三である。(事件時は大尉) 吉岡は日本を離れる直前、協会関係者に別れの挨拶をして歩いた。理事の永田鉄山は参謀本部に転じていた。重要なポストについており、訪ねて行った時も、生憎、会議中だった。が、内線電話で話すことができた。この時、永田は吉岡に餞(はなむけ)の言葉を贈った。 「今こそ、お前のような者が、ブラジルに渡って、橋頭堡を築くべきである。お前がブラジルで結婚して生まれる子供はブラジル人である。もし日伯開戦の場合は、我々日本軍と戦って勝利するような立派な子供に育て上げるように──」 この青年協会関係者には、また別の章で登場して貰う。