俳優・大西信満、裏方時代に受けた“理不尽な仕打ち“。罵倒され…衝動的に「それなら表方になってやろう」
大西さんは、2003年に公開された映画『赤目四十八瀧心中未遂』(荒戸源次郎監督)で初主演を果たす(当時の芸名は大西滝次郎)。大西さんが演じたのは、この世に自分の居場所がないと思い尼崎にたどり着いた主人公・生島与一。古いアパートの一室で、焼き鳥屋で使うモツ肉や鶏肉の串刺しをして生計をたてることに。やがて与一は、背中一面に刺青がある女・綾(寺島しのぶ)と関係を持つようになり、心中しようとするが、死にきれず…という展開。 ――撮影はいかがでした? 「それはそれでハードでしたよね。今と違って35ミリの時代だったので、セッティングにもものすごく時間がかかるし、まだ昭和の残滓(ざんし)というか、現場の荒々しい気風もあったので。自分が一番の新人で、しかも主演ということだったので、あらゆる部署からボロカスに言われていました。 どうにか撮影が終わってようやく休めるかなと思ったら、クランクアップの翌日から今度は映画の公開準備の段階に移ってくるわけですよ。全部自分のところでやるので、今度は、映画館はどこでやろうかというところから始まって。 『この映画のイメージに合う映画館をみんなリストアップして』と言われてリストアップしたら、『企画書を持って映画館に飛び込みで行くんだ』って言われて実際に行きましたよ。結局ポレポレ東中野と、今はもうないですけど横浜日劇に決まったのですが、今みたいにデータで渡したりできないから、自分たちで重いフィルムを担(かつ)いで行って決めてもらって。 もちろんそれは自分の力とかじゃなく、やっぱり大前提として荒戸さんという名前がまずあって、他にも大楠道代さんだったり、内田裕也さんだったり、寺島しのぶさんたちの存在があったから決まって。 あの当時は、たとえば企画書だって、今だったらパソコンで文字を打ってプリントアウトするんですけど、そんなのあの頃には許されませんでした。『一番いい和紙を探すように』って言われて、浅草の問屋みたいなところで一番いい和紙、しかも破れにくくてインク滲みしないやつとか、それを宣伝美術の人が中心になって一緒に探して。 企画書を作るだけでもそれぐらい手間がかかっていて、ちょっとでも雑なことがあったら罵倒されたし、『そんなんで映画を作れると思うなよ!』みたいな感じでした。 でも、芝居云々というよりかは、むしろその前も後も、企画・製作から上映まで全部ワンセットで映画作りだというのが僕の最初の体験だったんですよね。だから、いまだにそういうことが気になってしまいます」 ――『赤目四十八瀧心中未遂』には結局5、6年は関わっていたことになりますか。 「そうですね。上映が終わるまで含めたらそれぐらいかかっています。撮影自体は延べで60日ぐらいですけど、季節ごとの撮影があり、ほとんどが夏の撮影ですが、冬と春にも撮影して、秋は実景だけでしたが、ほぼ1年かけて撮影しました。 その前と、公開してからも1年ぐらい、ポレポレ東中野から始まって、テアトル新宿に行ったり…毎週のように舞台挨拶をしていましたからね」 ――大西さんは、この作品で第58回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞も受賞されました。受賞を知らされたときはどう思われました? 「もちろんうれしいんですけれども、あまりよくわかってなかったというか(笑)。後からその重みというか、いろいろ実感しましたけど、その当時はひたすら日々に追われて精いっぱいという感じでした。賞をもらって、次の日休みになるんだったらうれしいけど、関係ないですからね(笑)」 ――荒戸さんからは何か言われました? 「もちろん喜んでくれましたけど、ただ、自分以外の共演者の先輩方がもっと賞をいろいろ受賞されていたので、そういうなかにいると、自分なんか大したことないなっていう風に思ってしまう自分もいて。 『赤目』を撮り終わって公開して解放じゃなかったんです。今度は大森立嗣監督の『ゲルマニウムの夜』の準備が始まって、撮影が始まって。 自分は『ゲルマニウムの夜』に関しては現場に行ったりはしないですけど、みんなが東北のほうで撮影しているときに、東京でデスクみたいなことをやっていて、いろいろ連絡係みたいなことをしたりしていました。 さすがに携帯はあったけど、データで転送とかもできないし、何か足りないから送ってくれみたいなことだったり、お金の管理でも、現場が回らないからどうにか作ってきて、プロデューサーの人とやり取りして…とか。 自分は『赤目』の後、映画に3年ぐらい出ていないなって思って。自分としては、俳優がやりたくてせっかく映画にも出たのに、結局またこういう状態がずっと続くのかなと思うと、何か違うなって。それで、『僕は俳優がやりたい。専念したいです』と言って、映画製作会社じゃない普通の芸能事務所に所属することになりました」 事務所の移籍後、初のオーディションが若松孝二監督の映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』。以降、大西さんは、若松監督の遺作となった『千年の愉楽』まで晩年の若松作品全5作に出演することに。次回はその撮影エピソードなども紹介。(津島令子)