【追悼】楳図かずおさんが語った人生の転機「いちから全部、自分で考える」
小学5年生のとき、衝撃を受けた手塚治虫さんをシャットアウトし、自分の漫画を模索していた青年時代の楳図かずおさん。たどりついたのは、それまで誰も手掛けていなかったホラー漫画だった。 「やっぱりストーリーは、みんなの気が引けてインパクトのあるものがいいと考えたら、それは怖い話だって気がついたんです。これはじょじょに気がついていったものですね。ただ、なにが怖いのかって聞かれたら、具体的に説明することは難しくて。 やっぱり自分が怖い体験をしていないと、漫画に描くことはできないんです。自分はそういう体験をしていなかったから、なかなか怖い話が思いつかなかった。 そんなときに思い出したのが、4、5歳の頃に父が寝る前に布団で話してくれた蛇女の伝説なんです。なんで寝る前にそんな話を? って、今では思いますけど。怖いってあれだなって思って、怖い話が描けるようになったんです」 楳図さんが描いたホラー漫画の代表作に『へび少女』があり、ほかにもヘビが登場する作品は多いが、そのルーツは父親の寝物語だったのだ。そこまで強いインパクトを与えた父親の話。怖くて眠れなくなってしまいそうだが……。 「全然、そうはならなかったですね。面白いなと思って、何度も聞かせてって、ねだっていました。怖いけど、面白いなって感じていたんですね。面白いっていうのは、やっぱり引き込まれてしまう魅力があるからだと思うんですよ。怖いけど、気になって無視できない。そういう部分がないと、読む人の気持ちをつかむことはできないんでしょうね」 ようやくたどりついたホラー漫画というオリジナルなスタイル。しかし、それが評価されるのは、まだ先のことだった。
「恋愛もご法度」制約があった少女マンガ時代
「高校生の頃、集英社の『少女ブック』という雑誌に『泣き笑いやんちゃ物語』という作品を送ったらなんの返事もないのに、いきなり掲載することが決まったんですよ。 それで次に描いたのが『母よぶこえ』というバレエ漫画なんですが、その初回にホラーっぽいシーンを入れてみたんです。主人公が寝てる間に卑弥呼の亡霊みたいなのが出てきて、バレエシューズを置いていくという。ただ、編集長にこういうのは出さないでくださいって、注意されちゃいましたね。 当時の雑誌は、女の子の出ている漫画に男の子は出しちゃいけないという決まりがあったんです。恋愛もご法度。かわいらしい女の子が生き別れた母親を慕って苦労して再会する、というのが求められていたんですよ」 しかし、楳図さんはあきらめない。ロマンスな『母よぶこえ』の連載を続けながら、付録漫画で怖い話を描き続けていた。そして1961年、ホラーの『口が耳までさける時』とラブコメディの『ロマンスの薬あげます!』、正反対の2作が同時にヒットすることになる。 「恐怖と笑えるもの、こことここだって、確信したタイミングでしたね。ただ、そこで立ちはだかったのが、手塚治虫なんですよ。やっぱり絵が手塚風のかわいらしいものじゃないと、編集部が受け入れてくれなかったんですね。 僕はスーパーリアリズムを目指していたんですけど、かわいらしいまつ毛3本の絵じゃないといけなくて、めちゃめちゃ苦労しました。リアリズムに耐えられる“かわいらしい”はなんだろうって、工夫して、追求したんです」 ここまで来ても、まだ楳図さんの前に立ちはだかる手塚さん。その苦労は代表作の『へび少女』や『ねこ目の少女』などの、かわいいけれど、ただかわいいだけではない魅力を持つ主人公に結実していった。