終わらない戦争に悲惨な衝突…こんな時代だからこそ役立つ「哲学の本当の意味」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
「世界哲学」への道
日本哲学の意義のひとつに、「世界哲学」への貢献ということが考えられるであろう。 そこで述べたように、「世界哲学」とはさまざまな哲学の営みを統合した唯一の「哲学」を指すのではない。それぞれの文化の伝統のなかで成立した哲学のあいだでなされる対話の営み、あるいはこの対話がなされる場所を指す。以上で述べたような特徴をもった哲学として日本の哲学はその対話の場所でさまざまな貢献を行いうるのではないかと私は考えている。 そのことを、現在われわれとわれわれの時代が直面するさまざまな課題との関わりにおいて考えてみたい。 現代においてわれわれが直面する問題としてすぐに思い浮かぶのは、科学技術の著しい発達が生み出した、あるいは生み出しつつある諸問題である。科学技術は確かにわれわれに多くの利便をもたらした。われわれはその恩恵を抜きに生活を考えることができない。しかしその著しい発達、たとえば遺伝子の操作や、体細胞からクローン生物を作る技術の開発などは、あらためて生命とはなにか、人間とはなにかという問いをわれわれに突きつけている。また地球規模での環境の破壊や温暖化は、自然との関わりをあらためて問うことを必須なものにしている。 科学技術の発達によって、われわれはわれわれのあり方を根本から変えたと言ってよいであろう。たとえば本書で取りあげた「自然」との関わりで言えば、われわれは自然を畏れ、自然と共存するのではなく、自然をただ単に利用するだけの存在としてとらえるようになった。自然の恩恵のなかで生きるのではなく、自己の欲求を限りなく拡大し、それをどこまでも追い求める存在になっている。「より多く、より早く」と追い求めながら、しかし、われわれはそのように追い求める意味と目的とを見いだせないでいる。そのような仕方でわれわれの足下に大きな空洞が生まれつつある。 もちろん最近になってはじめてそのような問題に気づかれたのではない。たとえばハイデガーは、戦後の早い時期にすでに、技術の本質をすべてのものを「役立つもの」に仕立て上げてしまうところに見ていた。技術は、自然から有用性を引き出すようにわれわれをそそのかし、われわれのうちにある欲望を際限のないものにする。技術が支配するところでは、川はもはや生活のなかの川であるのではなく、発電用のタービンを動かすための水圧と水量として立ち現れてくる。「役立つもの」になるのは自然だけではない。「人的資源」ということばが端的に示すように、人間もまた「資源」として見られるようになっている。つまり有用な存在として見られるようになっている。そのような自然の、そして人間のあり様のなかにハイデガーははっきりと「危機」を見ていた。