終わらない戦争に悲惨な衝突…こんな時代だからこそ役立つ「哲学の本当の意味」
すべては「対話」から
しかしあるインタビューのなかで、その危機の克服のために東洋の思想から何かを期待するかと問われたとき、ハイデガーは、技術の支配の克服は、東洋的世界経験を受容することによってではなく、ヨーロッパ的伝統とそれを新しい仕方で自分のものにすることによってのみ可能になると答えている。ハイデガーは東洋の思想に大きな関心を寄せた哲学者であったが(たとえば『老子』の翻訳を試みている)、しかし彼においてはまだ西洋と東洋との対話ということは、本当の意味では求められていなかったと言ってよいのかもしれない。 しかし、近年ではむしろ、技術文明が直面する問題の普遍性が意識されてきている。つまりそれがひとり西洋の問題ではなく、全世界的な問題であることが意識されてきている。私のドイツでの師であったオット・ペゲラーは、日本を訪れた際に、「西田・西谷への西洋からの道」というテーマで講演を行ったが、そのなかでまさにその点を、そしてその克服のためには何より「対話」が必要であることを強調した。 もちろん西洋には西洋の文化と伝統があり、東洋には東洋の文化と伝統がある。そしてそれに基づいたそれぞれの自然理解、歴史理解、人間理解があることは言うまでもない。しかし、そのような差異があるからこそ、逆に、対話が意義あるものとなりうると言うことができる。科学技術の発展がもたらした問題は、それを生みだし、それを支えた人間観や自然観のなかでではなく、むしろそれと土壌を異にした人間観や自然観を対置することによって、──より適切に表現すれば──両者の対話のなかで初めて克服されるにちがいない。近年、西田や田辺、西谷らの著作が英語やその他の言語に翻訳されたり、それらをめぐる多くの研究が発表されたりしているが、それはいま言ったような点に気づかれているからではないだろうか(もちろんその問題だけが意識されているわけではないが)。 かつて西谷啓治の『宗教とは何か』のドイツ語訳(一九八二年)が出版されたとき、ドイツのヴュルツブルク大学のハインリッヒ・ロンバッハ教授が書評の筆を執られた。そのなかで氏は次のように記している。「日本の文化と伝統とは、ヨーロッパの科学技術文明に対して立ち、その唯一性、普遍性に疑いをさしはさむ唯一の、自立した文化であり、伝統である。……技術世界を迂回するのではなく、それを貫く歴史解釈は、日本的―仏教的伝統からのみ提示されるであろう」。日本の文化がヨーロッパの科学技術文明に対して立つ「唯一の」文化であるとは私は考えないが、ヨーロッパの文化と日本の文化との、さらに言えば、それ以外の諸文化との「対話」から多くのものが生みだされるに違いないという確信はもっている。 さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。
藤田 正勝