「年金の神様」が失脚、次官を目前に厚生省を去る 政治、メディア、積立金に翻弄されたエリートたちの全記録『ルポ年金官僚』より#3
1993年7月、古川はついに次官の座に就いた。政権交代が起き、宮沢喜一、細川護熙、羽田孜、村山富市と総理はコロコロと替わった。村山は古川の手腕を評価し、古川は次官を約1年半で勇退すると、官僚機構トップの官房副長官に抜擢される。その後、小泉純一郎政権まで8年7カ月、5人の総理に仕えた。当時の最長在任記録であった。 入省試験で弾かれた農家の長男を掬い上げた小山進次郎の眼に、狂いはなかった。 ■元霞が関トップの“遺言”
年金ほど長い間「政局」に使われ続けた制度は他にない。激しい攻防といえば消費税が挙げられようが、1980年代後半からのことで、それも散発的なものだ。年金は制度発足以来、「少なくとも5年ごと」の法改正が義務付けられている。現役世代なら保険料の「出」、高齢者なら年金受給額の「入り」という金に直結する問題だから、改正ごとに大きな政治パワーが必要となる。 そのせいか、年金史に刻まれる「大改革」は、決まって強い政権の時に成立している。1959年の国民年金法成立時の総理は岸信介、1973年改正は田中角栄、1985年改正は中曽根康弘、2004年改正は小泉純一郎、GPIF改革は安倍晋三……というように。
いまわれわれが接している制度は、国会審議、世論、マスコミに揉みくちゃにされながら、「法改正」という襷がつながって形づくられたものだ。彼ら名のある政治家を軸に据え、国民皆年金制度が始まって60年に及ぶ変遷を描くことで、年金の本質が見えてくるのでは──そう、私は考えた。 ところが、「政治と年金」の切り口で官僚OBや政治家に取材を申し込み、その歴史を紐解いていくうち、私は煮え切らないものを感じた。多くの政治家たちは、どうやら年金制度の中身を理解していない。彼らは「年金額」「保険料率」「支給開始年齢」といった国民が反応する数字を示し、大まかな方針を示したに過ぎないのだ。
その緻密な叩き台をつくったのは、言うまでもなく年金官僚である。彼らは目先の選挙などに左右されないから、遠い将来にわたって国民生活に根付かせる制度設計を考えている。ところが年金官僚にスポットライトが当たる機会は、そう多くない。法律は建前上、役所の審議会、国会審議を経てつくられ、官僚に決定権があるわけではなく、その発言も「官僚答弁」で面白みに欠けるからだろう。 そうこうしている間に古川貞二郎の死の報に接した。その時私は、古川が甲高い声でポツリと漏らした言葉を思い起こした。「(私の取材は)彼ら(年金官僚)の供養にもなるからね」という〝遺言〟であった。するとモヤモヤしたものが晴れていく心境になった。