速水健朗の『STATUS AND CULTURE』評:サーストン・ムーアのステイタスはなぜ落ちないのか?
僕が新潟で高校生だった頃、局地的なニューバランス(NB)のスニーカーブームが巻き起こった。国鉄が民営化されてJRになってまだまもない頃だ。上越新幹線の新潟東京間が1時間39分に短縮され、東京の近さが肌で感じられるようになった。とはいえ高校生のおこづかいでは、そう気軽に行けるものではなかった。僕らは、無駄に東京でしか手に入らないものに敏感になっていた。当時の新潟では売っていなかったNBのスニーカーをわざわざ東京で買ってはきはじめた天才がいて、それがきっかけで皆がNBをはき始めたのだ。 【写真】著者のデイヴィッド・マークス氏とユナイテッドアローズ上級顧問の栗野宏文氏 最初にはいたやつはもちろん、4,5番手くらいまでは、自分たち発信のブームという自負があっただろう。一方、15番手以降に買ったやつらは、そろそろはかないと浮くと思ってはいていたはずだ。実はどちらもステイタスに関する行動と言える。前者は新しい習慣を持ち込むことをステイタスと感じるタイプ。後者は、皆がはいているものをはかないと流行遅れと思われ、ステイタスを失うことを怖れるタイプということになる。 デイヴィッド・マークスの『STATUS AND CULTURE ――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』(筑摩書房)は、その「ステイタス」についての本だ。別にダイナースクラブのクレジットカードの話が展開されるわけではない。ちなみに、ステイタスをもたらす「もの」を「ステイタス・シンボル」と呼ぶが、それは「コミュニティ内で希少だとされるだけでいい」のだとデイヴィッドは指摘する。まさに僕ら新潟の高校生にとってのNBはステイタス・シンボルだったのだ。 人は、誰しも自分のステイタスに関する情報の出し入れをしている。例えば他者の使うスマホを見るときに、レンズの数を確認してしまうのは、そのスマホが古いもの、廉価版かどうかを判別するため、つまりステイタスの確認作業だ。一方、自分のステイタスに関する情報を発信する行為は「シグナリング」だという。はいているジーンズの裾を折って、耳(サイドシーイング)を見せるのもシグナリングゆえ。 シグナリングの示し方には、大きく2種類ある。1つ目は、フェラーリやメルセデスのGタイプに乗るような、金銭で手に入る豪華なものを見せつけること。本書では「ニューマネー」として説明される。誰もが理解できるステイタスの伝え方だが、それゆえの危険もある。まんまセンスに欠いた品のない行為と見られる可能性が高い。「ニューマネー」は成金の意味。ヒップホップのMVの多くは、今も金や車や美女(トロフィー的なやつ)といった「ステイタス・シンボル」であふれている。これらはコミュニティー内の流儀のようなものだ。最近上位を占めているヒスパニック系のヒット曲も同じである。 2つ目のシグナリングの手法は、「キャシェ(cachet)」を使ったものである。聞き慣れない言葉だが、「文化的な信頼の証明書」のような意味だ。本書では90年代に突如登場したミュージシャンのベックを使って、この「キャシェ」を説明している。 ベックが『Loser』でブレイクしたのは1994年。オアシスが同時期にブレイクしていた。ただ音楽マニアの間での評価で言えば、ベック>オアシスというステイタスだった。ステイタスは、セールスや知名度とイコールではない。つまり、ローカルなコミュニティーにおけるポジションの延長線上にあるもの。具体的には、音楽誌の批評、店頭のレコメンド、音楽好きのあいだでの会話、そうしたものの積み重ねでステイタスが生まれる。 さて、ではベックは、なぜそのステイタスを得ることができたのか。正体不明の存在だったベックは、あるときMTVの番組に登場する。そこで祖父がフルクサスの芸術運動のメンバーであることを話した。また、最初に買ったレコードが「ハイノ」だったか『ザナドゥ』(オリビア・ニュートン=ジョン)だったかどちらかだと答えた。あえて両極のセンスの楽曲を並べたのだ。「ハイノ」は日本のノイズミュージシャンの灰野敬二のこと。ベックは、こうした自らの文化的な背景を、誇示してデビューしたのではなく、あくまで番組の対話の中で披露した。「ニューマネー」のシグナリングと違い、「文化資本」を使うシグナリングは、慎重さが必要だ。このベックのPRは、音楽マニアに受け入れられる作法としては100点満点だったはずだ。そして、この番組のホストは、ソニック・ユースのサーストン・ムーアだった。そのことが一番の「キャシェ」になった。 興味深いのはサーストン・ムーアのポジションだ。彼は、新人ミュージシャンがキャリアの一歩目をたどるための紹介者として揺るぎない存在である。それは彼が有名だからではなく、一定の音楽マニアの間での強い信頼感を得ている存在だからだ。彼のアルバムをずっと聴いているというファンはさほど多くはいないだろう(言葉を選ばずに言えば)。ただサーストン・ムーアが時代遅れになることはない。彼の存在を"法則"として捉えてみたい。 <サーストン・ムーアの法則> 第一法則 サーストン・ムーアが推挙したアーティストのステータスは必ず上昇する 第二法則 その場合、上昇したステイタスは、18ヶ月で1/2ずつ減少する 第三法則 サーストン・ムーア自身のステイタスの総量は、常に一定である。 サーストン・ムーアのステイタスはなぜ減らないのか。彼は、過度に有名になることがない。これはステイタスを考える上で興味深いところだ。通常、一度生まれたステイタスは、ずっと保持はされない。音楽のマニア層は、皆が知っている存在になった途端、離れてしまうことがある。つまり誰かから「キャシェ」(文化的な信頼の証明書)を受け取ったミュージシャンは、有名になりすぎることでそれを失ってしまう。 「サーストン・ムーアのステイタスはなぜ落ちないのか」を解き明かす本がもし書かれたら、間違いなく僕は金を払う。ただヒットしないことも予言できる。なぜなら、彼は、一部の間でだけとりわけ有名という希有な存在だから。このジレンマこそがサーストン・ムーアの本質である。 ここまで取り上げたものは、ステイタスを巡る本書の一面でしかない。本の中では、もっとさまざまなステイタスやシグナリングの事例が取り上げられる。本書はマーシャル・マクルーハンのような手触りがある。キム・カーダシアンからギュスターヴ・フローベールまで、大量のステイタスの事例を参照しながら、説明は最小限に抑えつつ、著者のアイディアが提示されていく。そしてマクルーハンほど難読ではない。 書評はシグナリングの一種であり「キャシェ」だ。誰かが褒める前に、高ステイタス本を見つけて取り上げることで書評者のステイタスは上がる。また、書評の書き手のステイタスによって本のステイタスも左右する。この書評はサーストン・ムーアのレベルの演奏を振る舞うことができただろうか。
速水健朗