「納棺師になるかも」震災後の安置所で直感 「悲しいものは悲しい」、人に寄り添う葬儀の仕事に
東日本大震災で被災し、そのときに見た光景から葬儀にたずさわる仕事に――。 葬儀会社で働く27歳の女性に、仕事への思いを聞きました。(withnews編集部・金澤ひかり) 【マンガ全編はこちら】「納棺師になるかも」直感した女性
卒業式の準備中に揺れ
《この企画は、インスタグラムやツイッターを中心に作品を発表している、イラストレーターのしろやぎ秋吾さん(@siroyagishugo)との共同企画です。「20代、人生の悩み」とSNSでエピソードを募り、しろやぎさんがマンガ化したエピソードの中から記者が取材を進めています》 ◇ 宮城県内の内陸部に住む女性は、中学2年生だった2011年3月11日に東日本大震災で被災しました。 発災時は通っていた中学校にいて、卒業式の準備中でした。 「当時は行事をまじめにやるような生徒ではなく、準備半ばで友人4人くらいでトイレに行き、鏡の前でおしゃべりをしていました」 そんなときに揺れが起きました。 「最初は『長いね』なんて言いながらやり過ごしていましたが、しばらくすると下から突き上げるような揺れになり、手洗い場やトイレのドアをつかみながらやっと立てているような状態でした」 揺れがおさまったあと、トイレの外に出ようとするも、揺れでゆがんでしまったためか、ドアが開かなかったといいます。 「少しのすき間から、先生や生徒が逃げているのが見えました」 気持ちが焦る中、必死に助けを呼びました。それに気付いた先生たちと協力して、なんとかドアを開け、避難することができました。 「当時は雪も降っていてすごく寒かった」と、女性。 校舎の外に、運動会などで張られるテントが設置され、一部の生徒たちはそこで親の迎えを待っていたそうです。 女性は7歳下の弟を迎えに行き、いとことも合流してから、山間の祖母の家に避難しました。祖母宅には発電機があったからです。
「私って納棺師になるかもしれない」
その後、女性の母親も祖母宅で交流。ガスや水道が止まる中、祖母宅で避難生活を続けていました。 発災から1週間ほど経った頃、女性は母親の仕事の都合で、県内でも海沿いの地域に行くことになります。 その頃、母親は海沿いの東松島市で介護職として働いていました。 津波などで甚大な被害が出ていた宮城県内。母親の勤務先の施設利用者の安否確認をするための人手が足りていませんでした。 安否確認に母親が向かう車に、女性も同乗しました。母親の勤務先は中学校の体育館の近く。駐車した車内で待っているようにと言われましたが、「ゲームも携帯もなく時間をもてあましたので周囲を歩いてみました」。 中学校の体育館にふと目をやると、そこは、地震や津波で被害に遭った方々の遺体を安置する場所でした。 「ブルーシートや毛布、何かしらの端切れのような布で全身包まれたご遺体の横で、家族が泣き叫んでいたり、ボーッと立ち尽くしている人もいました」 その傍らで、行政の職員らしき人が涙ながらに遺族に何かを説明していた様子が印象に残っているといいます。 安置所の雰囲気は、これまで女性が感じたことのないものだったといいます。 「人が泣き叫んでいる声も聞こえているのに、妙に静かで、冷たいような、張り詰めたような空気でした」 そして感じたのは「怖いとも、悲しいとも違う、不思議な感じ」だったといい、納棺師と思われる人が、遺体に最低限の処置をする様子も目にしました。 その光景を目にしたとき、女性は「私って納棺師になるかもしれない」と直感したといいます。