ジェフ千葉のJ1昇格に全力を注ぐ米倉恒貴のサッカー魂はどうやって培われてきたのか
でも、僕がずっとライバルだと思っていたのは山崎だけ。あいつの才能がいつも羨ましくてたまらなかった。だからその時代、時代で、あいつに何本もアシストしてきたんですけど、あいつに活躍されるのが嫌で、ボールを送り込むたびに『外せ!』って思っていました(笑)。天才だから決めちゃうんですけど。 もちろん頭では、彼が決めてくれるから僕にアシストがつくということも理解していましたけど、それも認めたくなくて『うわぁー! また決めやがった!』と思ってました。でもだから、本当に誰にも負けないくらい練習したし、才能には練習量で抗うしかないと、ひたすらサッカーと向き合えたんだと思います」 そんな彼が高校サッカー選手権でベスト4、大会優秀選手という栄冠を引っ提げて千葉への加入を決めたのは、3年生時の練習参加がきっかけだ。2005年のナビスコカップ(現ルヴァンカップ)における初タイトルをはじめ、2006年にも同大会で連覇するなど、当時イビチャ・オシム監督のもと、目を見張る躍進を続けていた千葉に放り込まれても「全然できる」と思えたことに背中を押されたという。もっとも、その自信は正式にその一員となってすぐに打ち砕かれたが。 「数日間だけパッと入ってプレーする分には、フィジカルも含めて全然やれるなって思ったんです。でもいざ、加入してみたら『あれ?』と。羽生(直剛)さんとか、勇人さん(佐藤/千葉クラブユナイテッドオフィサー)、山岸智さんや水野晃樹さん(いわてグルージャ盛岡)、水本裕貴さんら日本代表選手はタッチひとつ取っても全然違ったし、『これがプロか』と思うようなプレーの連続で、マジで頑張らないとすぐにキャリアが終わるという危機感しかなかった。 当時のジェフにはジェフ千葉リザーブズというセカンドチームがあって、若い新加入選手はたくさん入ってくるけど、リザーブズに行ったあと、契約満了になる選手もいたので、そうならないためにはどうするのかってことばかり考えていました」 結果、周りと同じことをしていても生き残っていくことはできないと、中学・高校時代のように練習に明け暮れたという。チーム練習が午後からの日も、午前中からひとりグラウンドに出て、繰り返しボールを蹴った。 「正直、そんなふうに自主トレをすることを快く思っていない選手もいることは気づいていましたけど、子どもの頃から練習をすることでしか成長できない、巧い選手に対抗するには練習量で上回るしかない、と自覚していたので、やるしかないと。そういう状況って苦しいし、悔しいんですけど、でもだから、やる。ただただ周りの選手にも、自分が置かれている状況にも負けたくないから、やるんです。