戦国大名築いた城郭建築のさきがけ 山科本願寺跡の土塁見学
戦国大名築いた城郭建築のさきがけ 山科本願寺跡の土塁見学 撮影:岡村雅之 THEPAGE大阪
京都・山科に、かつて大きな宗教都市があったのをご存じだろうか。大谷大学(京都市)はこのほど、戦国時代初期に栄えた山科本願寺の遺構を訪ねるフィールドワーク「山科本願寺跡を歩く」を開催した。同大学博物館で開かれている特別展「戦国乱世と山科本願寺」の一環。参加者はまちなかに点在する土塁の大きさなどを体験しながら、山科本願寺の歴史的役割に思いをはせていた。 名刀「号 骨喰藤四郎」真田丸・大阪展に登場
まちなかに宗教都市の土塁跡が点在
山科本願寺は15世紀後期、浄土真宗中興の祖蓮如が建立した。堂舎が建ち並ぶ第1郭「御本寺」、僧侶などが居住する第2郭「内寺内」、町衆たちが暮らす第3郭「外寺内」の3つの郭で構成。寺内町から少し離れて蓮如の隠居所が建てられ、「南殿」と称された。周囲に土塁や堀を築いて守りを固め、城郭的要素の強い宗教都市を形成していた。 大いに栄えたものの、1532年(天文元)、近江六角氏や法華一揆の攻撃を受け焼失。現在も一部残る土塁跡を観察すると、後の城郭建築に通じる緊張感がよみがえる。土塁跡などが、国史跡「山科本願寺跡及び南殿跡」に指定されている。 フィールドワークはJR山科駅前に集合し、参加者に本願寺の遺構などを描いた古地図資料を配布。探訪ポイントに到着するたびに、前学長の草野顕之教授が資料と照らし合わせながら分かりやすく解説した。
木々が茂る公園の小高い丘が土塁跡
東西本願寺の山科別院や蓮如上人御廟を経て、山科中央公園へ。グラウンドの向こうに木々が茂る小高い丘が見えてくる。第2郭内寺内の東北土塁だ。 L字型に屈曲し、大きさは東西約75メートル、南北60メートル。もっとも高いところで、高さは9・2メートルにおよぶ。坂を上ると木々のすきまから周囲を見下ろせ、本願寺の強固な防衛意識が伝わってくる。今は子どもたちがよじのぼって元気に遊ぶ。 さらに閑静な住宅街を進み、第1郭の北西角土塁や西側土塁と、やや離れた光照寺・南殿跡の土塁などを見学した。宗教都市の土塁跡がまちなかに点在するのは、全国的にも珍しい。草野教授は山科本願寺の歴史的役割に関して次のように話す。 「一向宗の力が強まったことで、拠点である本願寺が他の勢力から狙われて危なくなり、山科本願寺は城郭のように守りを固める必要があった。山科は盆地状の平野であるため、従来のように山に城を築いたり、大きな川を背負って城を構えることはできない。周囲からの攻撃を防ぐため、きわめて頑丈な土塁や堀を築いたと考えられる。やがて戦国大名が群雄割拠する歴史の転換期を迎えるが、山科本願寺は大名たちが堅固な城郭を築くさきがけとなった。本願寺が大名たちに先んじて城郭建築を手掛けたとみるべきだ」 今もまちなかに点在する土塁は、激動期の社会と人間の営みを記憶している。特別展「戦国乱世と山科本願寺」は28日まで。山科本願寺研究に欠かせない古地図などを多数展示している(有料)。詳しくは大谷大学の公式サイトで。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)