カリスマ経営者の鈴木修氏とは? 徹底した現場主義 オサム節から勘ピューターまでユーモア富む人柄
会長、社長を半世紀近く務めてスズキを「小さな巨人」と呼ばれるほどの世界的に知られる自動車メーカーに育てた鈴木修氏は、カリスマと呼ばれながらも徹底した現場主義を貫いてきた経営者でもあった。 【鈴木修氏の歩み】43年間、経営第一線で 鈴木俊宏社長兼最高経営責任者(CEO)ら、スズキの経営陣が国内外の工場を隅から隅まで歩いてチェックする「工場監査」。鈴木修氏が1989年から毎年実施しているスズキグループにとって最も重要な恒例イベントだ。鈴木修氏は工場内の蛍光灯の数からライン従事者が移動する歩数など、工程を細かい部分まで入念にチェックし、気付いたことはその場で改善させる。「単価の安い軽自動車が生き残るには徹底したコストダウンが必要」との考えから実施してきた。スズキの工場内の蛍光灯にはすべて引きひもスイッチがあり、不要な蛍光灯だけを消灯できるようにしている。また、コンベヤを設置する代わりにラインを傾けて重力で動くようにしたり、太陽の光がなるべく入るようにして電気代を節約するための工夫が随所にある。鈴木氏が掲げてきた生き残るための「ケチケチ経営」の象徴でもある。 現場主義は販売に関しても同様だ。スズキは国内に直営ディーラーを展開しているが、軽自動車販売の主軸は業販店で、鈴木氏は有力業販店を大切にしてきた。有力業販店の経営者らを一流ホテルに集めて開く勉強会と宴会をセットにした「副代理店大会」では、鈴木氏自らがビール瓶を持って笑顔でテーブルを回る。行き届いたもてなしに、経営者や同伴している夫人からの支持は絶大で、〝修ファン〟も多かった。スズキ車を多く販売して副代理店大会に呼ばれることを目標にしている業販店もあり、店舗に鈴木氏との2ショット写真を飾っている業販店も少なくない。 鈴木氏の独特のユーモアは多くの人を惹きつけてきた。スズキの記者会見は、時に歯に衣を着せぬ発言、時に皮肉たっぷりの「オサム節」で出席した記者を煙に巻いたり、笑わせたりすることで有名で、自動車担当記者のファンも多い。 アライアンスパートナーも鈴木氏の人間性に魅了され、信頼関係を構築した。提携していたゼネラル・モーターズ(GM)との欧州での共同事業の交渉が進まないことに業を煮やした鈴木氏が、「ボトムアップ・イズ・コストアップ、トップダウン・イズ・コストダウン」と言い放つと、当時のジョン・スミス会長、リチャード・ワゴナー社長は爆笑。その後、提携事業はスムーズに進んだ。その後もスミス氏とは親交を深めた。GMのトップは他の会社の役員に就けない内規があったにも関わらず、鈴木氏の依頼を受け入れて、スミス氏はスズキの社外取締役に就いた。 鈴木氏のユーモアのセンスは商品の車名にも生かされてきた。スズキが軽自動車業界の盟主となるきっかけとなった初代「アルト」の由来は、イタリア語の「優れた、秀でた」の意味だった。これを鈴木氏は発表会見で「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、〝あると〟便利なくるま」と説明、会場は大いに受けたという。原付バイクの価格が20万円程度にまで上昇している中、コストダウンを徹底することで国産で5万9800円の低価格原付スクーターは、少しの距離をちょっと乗るだけだから「チョイノリ」と名付けた。 「軽自動車の中で、最も軽自動車らしい」ことを意識して開発したモデルには「Kei」と名付けた。当初「ジップ」の車名で販売する予定だった新ジャンルのワゴンタイプの軽乗用車の車名を「スズキにはセダンがあるけど、ワゴンもある。だからワゴンアール(R)」とのアイデアをひねり出したのも鈴木修氏だ。 鈴木氏が「町工場レベルだった」と評するスズキが、世界の中堅自動車メーカーにまで成長してきたのは、鈴木氏のトップダウンによる即断即決の経営判断を下してきたことが大きい。中国、米国、スペインの四輪車事業の撤退、短期間で解消したフォルクスワーゲン(VW)グループとの提携、燃費不正や完成検査不正など、経営判断の失敗や不祥事があったのも事実。それでも鈴木修氏が言うところの「経験に基づく勘(カン)ピューター」によってGMとの資本提携、インド事業への積極投資、アルトやワゴンRのヒットなどを実現してきた。 軽自動車市場の活性化を引っ張ってきたスズキが13年に市場投入して大ヒットとなった「ハスラー」。開発当時は0.1リットル/キロメートルを争って軽自動車の低燃費競争が激化していた。そんな時、燃費性能にこだわらない新ジャンルの軽自動車を市場投入できたのは、開発部門が「消費者が軽自動車に求めているのは、トップの低燃費ではない」というカンが働いたからで、鈴木氏もハスラーのヒットには喜びを隠さなかった。市場を先読みするカンピューターは、次代に受け継がれている。 (編集委員・野元 政宏)