一条天皇の辞世の歌「君」は誰のこと? 彰子さまか、定子さまか…藤原道長と行成で違った解釈
大河ドラマ「光る君へ」では、彰子さまと心を通わせた一条天皇が崩御するシーンが描かれました。一条帝が残した辞世の歌は、記録によって表記に違いがあり、誰に宛てたものなのかも諸説あるといいます。平安文学を愛する編集者・たらればさんの解釈は…?(withnews編集部・水野梓) 【画像】「光る君へ」たらればさんの長文ポスト 放送の1年「情緒がもつのか…」
辞世の歌の記録、道長と行成で表記にぶれ
withnews編集長・水野梓:第40回「君を置きて」では、数え年で32歳で一条天皇が崩御してしまいましたね…。 たらればさん:タイトルの「君を置きて」が、一条帝の辞世からとっていましたからね…。 水野:この歌は、記録によって表記にぶれがあるそうですね。 たらればさん:はい。この歌は一条帝の最期を看取る際、病床にて口頭で詠まれたとされています。道長が『御堂関白記』に記したのはこちら。 「露の身の 草の宿りに君をおきて 塵をいでぬることをこそ思へ」 たらればさん訳/人生という、草のうえの露のようなはかないこの世に、きみを置き去りにして、わたしはひとり出家してしまった。そのことが気がかりでならない。 行成が記した『権記』の記述はこちらです。 「露の身の 風の宿りに君を置きて 塵を出でぬることぞ悲しき」 たらればさん訳/人の身は露のようにはかないもので、(一筋の風で飛ばされてしまうような)この世に、いとしい君を置いてゆくことがかなしい。 水野:病状が重くて、どう言ったかハッキリ分からなかったのかもしれませんね…。 たらればさん:念頭に、亡くなった定子さまの辞世「煙とも 雲ともならぬ身なりとも 草葉の露をそれと眺めよ」があったかどうか、ということも言われています。 水野:自分の人生を「露」にたとえるところにも共通点がありますもんね。
「君」は誰をさすのか? 解釈はさまざまだけど…
たらればさん:ドラマでは『権記』の表現を使っていましたね。 この辞世にある「君」が、彰子さまのことを指すのか、(一条帝が亡くなった西暦1011年から数えて)11年前に亡くなった定子さまのことを指すのか、というのは諸説あります。 道長は疑いなく「彰子のこと」と記し、行成は「其の御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し。」(私訳/一条帝のお心は皇后にあったのでしょう。ただ本当のところどうなのかは知りようもありませんが…)と記しています。この「皇后」が定子さまのことか、彰子さまのことかで、また諸説あるわけです。 水野:そうなのか~。たらればさんはどう思いますか? たらればさん:わたくし個人としては、「光る君へ」のドラマ内での描写と同じく、(定子さまのことが頭によぎりつつも)目の前で自分を看取ってくれている彰子さまに宛てて詠んだのだろうなと思っています。 水野:わたしも同じ思いでした。定子さまのことはもちろん思いつつも、短い間でも心を通わせ、定子さまの遺児・敦康を東宮にするべきだと考えてくれていた彰子さまのこともふまえて詠んだと思いたいです。 たらればさん:彰子さまは満年齢で11歳の頃に父(道長)と周囲に言われるがまま入内して、この時点まで11年間連れ添い、生涯唯一の夫となった一条帝を看取ります。 辞世を聞いているときも「これは自分宛てかな? それとも定子さま宛てなのかな?」と思ったはずなんですよね。 そういう思いを抱えて、彰子さまはこの時から60年以上、満年齢86歳で亡くなるまで、妹や子や孫まで亡くしながらも「女院」として孤独に政争を生き抜いて、定子さまの遺児たちの境遇や、『源氏物語』や『枕草子』や『和泉式部日記』といった一条朝で生まれた輝かしい文学作品を守ってゆきます。 そうした彰子さまの人生をふまえると、(自分は中関白家派であり定子さまや清少納言のファンではありますが)「この歌が誰に宛てたかを決める権利はそれぞれの読み手にあるだろうけど、それでも彰子さまに宛てたということにしておきたいなあ…」と思います。 ちなみに、一条帝(譲位して院)が亡くなった日、道長は『御堂関白記』で誤字を記しています。この『御堂関白記』は道長直筆のものが残っており、国宝・世界遺産に認定されているんですね。 道長が記したのは「廿二日、甲子、巳時、萌給」。この最後の2文字、正しくは「崩給(≒崩じ給ふ)」であり、このまま読むと「萌え給ふ」になってしまうわけで、個人的に日本文学史上もっとも面白い誤植(誤記)だと思っています。 水野:一条天皇が亡くなってつらい気持ちが、ちょっと和みました。