しんどい現実に向き合えなくても。他者を知る手段としてのドキュメンタリー
ドキュメンタリーとジャーナリズムは別物
── 久保田さんは昨年の夏、取材でウクライナに行かれたそうですね。現地ではどのような活動をしたのでしょうか? 元々、知り合いで出張料理人のソウダルアさんが「ウクライナ避難民の方々に食糧ではなく、おいしいものを届けたい」という思いから、ウクライナでイベントを企画されていたんです。そのイベントと共にキーウ郊外にある破壊された学校を再建している様子を撮ってほしいと声がかかり、約1か月間キーウに滞在しました。 そこで暮らしているウクライナ人は、当初「戦争が終わったら、政府が立て直してくれるだろう」と思っていたそうなんです。だけど、開戦からすでに1年半(当時)が経過している現状に、市民自らが動くと決めて、みんなほぼ毎日、朝から晩まで再建のために働いていました。自分たちの手でなんとか日常を取り戻そうとするウクライナの人々を見ると、その動きが戦争という大きな物語に対する抵抗に感じました。
── たとえ戦時中でも、そこで暮らしている人の生活は続いているんですよね。 はい。ウクライナとミャンマーでは全く違う種の武力衝突が起こっているんですけど、そこに生きている人たちの強さと生き様は、どこか重なるものがあって。やっぱり死が近くにあると生がすごく濃厚なんですよ。自分はそんな人たちと一緒に過ごせてよかったなと思いましたね。 それこそ、僕はよく「戦場ジャーナリスト」みたいに言われることがあるんですけど、自分ではそう思っていないんです。
── それはどうしてでしょう? 個人的に、ドキュメンタリーとジャーナリズムは別物だと思っているからです。僕は「この問題をどうにかしたい!」というジャーナリズム精神から映像の世界へ入ったわけではなくて。自分の人生の中でミャンマーやウクライナとの接点があったので、ドキュメンタリーを通して声をあげる義務がある、と思って映像を撮っています。 また、現地で一緒の時間を過ごしながら被写体を撮っていると、彼らが自分の人生に入ってくる感覚もあるんです。それに制作中、「自分はこういう人間だったんだ」と再確認できる時間にもなっていて、ドキュメンタリー制作は自分を見つめ直すきっかけにもなっています。