芥川龍之介は風采90点、腕力0点、性欲20点…総勢68人の作家に"文春砲"浴びせても菊池寛が憎まれなかったワケ
良い人間関係を築くのが上手なビジネスパーソンの特徴は何か。『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)を上梓した文芸評論家の富岡幸一郎さんは「出版社・文藝春秋の創設者であり出版界のリーダーだった菊池寛は、才能のある人物には惜しみなく投資し、縁を築いた」という――。 【画像】1919年5月の菊池寛と芥川龍之介たち ■「副業」や「複業」をこなす文芸界の名プロデューサー 芥川龍之介、太宰治、川端康成など、後世に語り継がれる作家が活躍した背景には、菊池寛という名プロデューサーの存在がありました。のちに文豪と呼ばれるようになる才能を見出し、執筆の機会を与え、ときにはお金を貸すなど生活面でのサポートをして、世に送り出してきたのです。 菊池は、小説家としてはそれほど有名ではないかもしれませんが、日本の文芸界にとっては欠かせない存在です。小説家であり、文芸芸術のプロデューサー、著名人のスキャンダルやスクープで“文春砲”を放つ『週刊文春』でお馴染みの出版社「文藝春秋」の創設者でもあります。 菊池自身も人気作家として活躍しながら、さまざまな顔を持つ、とてもユニークな存在です。なんと一時は、芥川よりも菊池のほうが人気だったこともあるともいわれます。 菊池の人生をひもといていくと、ビジネスパーソンとして非常に優秀であるとともに、大変な努力家だったことがわかります。 何をやらせても一流だったといっても過言ではないのですが、経営者として働くかたわら、休日を使って個人で仕事をする「副業」や、複数の仕事を兼任する「複業」など、1つの職場環境に依存しないのが当たり前になった現代のビジネスパーソンにとってのロールモデルになるような人物ともいえます。 ■少年時代は貧乏で嫌な思い出しかない“本の虫” 菊池の幼少時代は、あまり恵まれたものではありませんでした。 香川県香川郡高松(現・高松市)に生まれ、父親は小学校の庶務係、母親は内職をしていました。のちに菊池は、「少年時代は貧乏で嫌な思い出しかない」と語っています。経済的に恵まれない家庭に生まれ、ほしいものも買ってもらえなかったのでしょう。 菊池が入り浸っていたのは、中学3年生のときにできた地元の公共図書館でした。 その図書館には約1万8000冊が蔵書されていましたが、文学や歴史など興味のある本はすべて読んだそうです。まさに“本の虫”だったのです。 成績優秀だった菊池は、中学を卒業すると上京し、学費免除で東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学しました。師範学校は教師を養成する学校ですが、菊池は教師になるつもりはなく、授業をサボっては芝居見物をしたりテニスをしたりしたことから、除籍処分となってしまいます。なんとなく豪放磊落(らいらく)な性格がうかがえます。