およそ80年ぶり、満州でクラスメイトだった2人が京都で涙の再会 「あの背が高かった子だ」
80年近くを経ての再会だった。満蒙開拓団として渡った旧満州(中国東北部)で、国民学校の同級生だった京都府亀岡市の黒田雅夫さん(87)と、大阪府島本町の田畑克枝さん(88)。黒田さんが体験をまとめた絵本を昨年出版すると、過酷な引き揚げ中に消息不明になった級友だと田畑さんが気づいた。再会を機に、協力しての語り部活動も開始。「本が奇跡を生んだ。平和への思いを一緒に訴えたい」と誓う。 黒田さんは亀岡市、田畑さんは京都市南区の出身。 ともに1940年代、「廟嶺(びょうれい)京都開拓団」に家族で加わり、吉林市の南にある廟嶺に入植。国民学校3年生で引き揚げを経験した。 開拓団員たちは襲撃を恐れ、夜のコーリャン畑を歩いて逃げた。ソ連兵や現地住民に襲われ、犠牲になる人もいた中、約300キロ離れた撫順(ぶじゅん)に到着。難民収容所に入り、寒さと飢えの中、伝染病に苦しんだ。 収容所で祖父と母を亡くし、孤児となった黒田さんは「売り飛ばされる」と危ぶみ、路上生活へ。教会に保護された後、葫蘆(ころ)島から引き揚げ船に乗り、1946年7月に舞鶴へ入港した。叔父に迎えられ、故郷へ帰ることができた。 語り部を続ける中、記憶を後世に伝えようと、絵本「今を生きる」を昨年8月に発行した。逃避行の悲惨さを色鉛筆の絵で伝え、京都新聞をはじめ多くのメディアが報じた。 田畑さんは、黒田さんの脱出後も収容所に残り、葫蘆島を経て46年6月に博多へ入港。近年は大阪府内を中心に語り部をしている。絵本発行のニュースで開拓団や黒田さんの名前を見て気付いた。「あの背が高かった子だ」。離ればなれになった級友だった。 関係者を介して連絡先を知り、亀岡市内の黒田さん宅を昨年末、訪れた。「よく生きて帰ってこれた」。互いに涙を流して、喜び合った。 さらに二人には奇遇な縁があった。黒田さんが収容所を脱出後、その母親の遺体を田畑さんが弔っていたことが、今回の再会後、語り合う中で分かってきた。 母の遺体は地面に置かれ、雪をかぶっていたが、雪解けで一部が露出していた。田畑さんは土をかけてやり、一緒に作業した人から「この女性は目が見えなかった」と聞いた。 黒田さんの母は片目が義眼だった。「うちの母に違いない」と黒田さん。「遺骨も帰らなかったが、同級生が供養してくれていたと知れてうれしい」 二人は今年から語り部として協力し、体験を語っている。10月には南丹市園部町の園部中で講演した。 「どうか命や家族、友達を大切に」―。戦争体験者の高齢化が進む中、絵本を縁にした「奇跡の再会」を伝承に生かしていく。