【マキ上田連載#3】松永高司社長と父の2人だけでプロレス入りの話が進んでました
【マキ上田 ビューティ・ペアかけめぐる3年間の軌跡(3)】1974年4月に鳥取県立鳥取農業高等学校(現鳥取湖陵高等学校)の農業科に進学しました。勉強は得意ではなかったので高校に進学するのも迷っていたんですけど、両親から「通っておいた方がいい」と言われ、家から自転車で通える距離の高校に通い始めました。 【写真】松永高司社長の熱血指導! 小さい時に将来の夢は特になかったけど、編み物とか細かい作業が好きだったので美容師になりたかったような気がします。でも中学校でバレーボール部に入ってからはなんとなく、バレーボール選手とか、スポーツ関係の仕事がしたいと思い始めましたね。鳥取だと大阪とか関西に就職する子が多いんだけど、私はテレビの映像を見て「東京に行きたいなあ」なんて漠然と考えてました。 じゃあなぜプロレスラーになったかって? それは父がプロレスが好きだったんです。鳥取で興行がある時は自分も見に行ったことがあったみたい。でも、私はそんなに興味を持ってなく、あまりテレビでも見ていません。知っているプロレスラーはジャイアント馬場さんくらい。だから女の人がプロレスをしていることも知らなかったし、当時はそこまでプロレス自体が人気じゃないから、お客さんもそんなに入っていませんでした。 ある日父が、女のプロレスを見に行って客席をウロウロしてた松永(高司)社長に「ウチにも縦長で行けそうな子がいるんですけど」って言ったらしくて。そこでしゃべってたら、社長も「くれるんだったらちょうだい」みたいな(笑い)。私は会ってもいないのに2人だけで話が進んじゃってて。それでうちの親も「どうする?」って私に聞いてきたんです。 最初は母が猛反対してました。大切に大切に育てた15歳の娘を全く知らない、誰も知り合いのいない土地に行かせるのは心配だったようです。でも父は「寮生活でちゃんとしてるし、大丈夫だよ」と軽い感じでしたね。私は最終的な目標として、東京に行きたかったから「とりあえず東京に行って向こうの地理を覚えて、チャンスがあればバレーボール選手になれたら」という気持ちで父の話に乗っかって、東京に行くことを決めました。 あの時は鳥取から父が車を運転して目黒の事務所に向かったんだっけな…。オーディションが実施されたのは、ジャガー(横田)の世代から。当時は審査らしい審査もなくて新しい子が来たから一発合格。身長はあったから「これからどう育てていこうかな?」って見定められてる感じだったかな。でも「いいものを手に入れた」みたいな顔をしていた気がしてました。 私は特別にプロレスが好きってわけでもなかったから「これから何するんだろう」って感覚で不安もなかったです。こんな感じで私のプロレスラー人生が始まりました。
マキ上田