太平洋戦争激戦地・パラオで病院開設の部隊、編成は青森・弘前市 10月、分院とみられる跡地発見
太平洋戦争末期の激戦地・パラオで、第123兵站(へいたん)病院を開設した部隊は1943(昭和18)年3月に、弘前市の弘前陸軍病院で編成されていたことが、防衛研究所戦史研究センター(東京)が所蔵する文書で分かった。青森県護国神社(弘前市)の資料によると、部隊には複数の県出身者が所属していることが分かっており、今回確認された資料は、青森県とパラオのつながりを、あらためて示すものとなっている。 パラオの戦争遺構について調べている横浜愼一さん(62)=十和田市=が11月、国立公文書館アジア歴史資料センターのデータベースを検索し、防衛研究所戦史研究センターが所蔵する第123兵站病院の行動概要を記した資料を発見した。それによると、第123兵站病院を運営する部隊は弘前陸軍病院で編成され、43年3月10日に弘前を出発。同12日に宇品港(広島県)をたち、パラオへ向かった。 3月21日にパラオ本島の南側にあるコロール島に上陸。12月27日に病院を新築した。44年7月ごろ、空襲の激化を受け、パラオ本島に移動し、分院を置き患者収容に従事した-と記載されている。この分院が密林地帯に開設した野戦病院とみられる。 第123兵站病院で内科の看護助手を務めていた仲井間千代さん(97)=東京都=は東奥日報に「空襲が激しくなったため病院は本島のジャングル地帯に移動した」と証言しており、部隊の行動概要と符合する。 第123兵站病院は、医師の名前から「和久井病院」と言われた。本島に移動した分院の所在地が分からず“幻の病院”とされていたが、横浜さんらのチームが10月、本島中心部の密林地帯に、薬品の瓶が大量に散在している場所を発見。野戦病院跡地であることを確認した。12月にも現地入りし、調査を進める。 弘前陸軍病院の前身は、1897(明治30)年に創設された弘前衛戍(えいじゅ)病院。1936(昭和11)年に弘前陸軍病院と改称した。45(昭和20)年に国立弘前病院となり、現在は弘前総合医療センター(弘前市富野町)となっている。 青森県護国神社の資料によると、パラオで死亡した青森県出身者は102人。このうち3人が第123兵站病院に所属していた。横浜さんは今回の資料の発見について「本県とパラオに深いつながりがあったことがあらためて分かった。この史実を次の世代に伝えていくためにも、調査をさらに進めなければならない」と語った。 ▼青森県からも多数の将兵 青森県の近現代史に詳しい中園裕さん(県地域生活文化課)の話 太平洋戦争末期には、全国各地で多数の師団が新設された。青森県でも、第8師団以外に第69師団や第108師団など、複数の師団が編成され、多数の将兵が大陸や南方へ派遣された。断片的な資料だけで判断するのは難しいが、第123兵站病院も弘前陸軍病院の関係者をもとに編成されたようだ。北の陸軍病院であろうと、南方へ派遣され、敵陣に当たり、命を落とした人々がたくさんいたことは、青森県史の資料編を見ても明らかである。