善か?悪か? 松本清張は小説の中で「新聞記者」をどう描いていたのか
新聞記者という職業の特性
そういう新聞記者のあり方を登場人物の一人である新聞記者に語らせている小説に、『黒い樹海』(1958年10月~60年6月)がある。この小説はR新聞に文化記者として働いていた女性記者が不慮のバス事故で死亡し、その妹が姉の死を巡っての謎を、同新聞社の社会部記者とともに突き止めようとする話だが、その社会部記者はこう語る。 「われわれ新聞記者は、ある程度、周囲を調査することはできます。それ以上のことになると、限界があります。つまり、われわれは警察官と違って、捜査権はありません。今一歩という突っ込みができないわけです」、と。 しかし、そのような「周囲」からの「調査」だからこそ、読者は新聞記者とともに少しずつ真相に近づいていく面白さを味わえるわけである。 ほかにも、新聞記者の取材力を効果的に使った物語としては、新聞記者が自分の父親の出自に関わる謎を明らかにした小説「暗線」(1963年1月)や、少年時代に絵はがきの写真を見て、そこに写っていた少女に惹かれた主人公が成人して新聞社に入り、新聞記者の取材力で少女のその後の人生を追う話である。彼女の人生は不幸であったことがわかるのだが、これも新聞記者という職業の特性を活かした物語と言える。
清張が描いていた、新聞記者のイメージとは?
このように清張は、新聞記者という存在をうまく使った、多くのミステリーやサスペンスを書いているのだが、それでは清張が新聞記者たちをどう見ていたかというと、とくに彼らの人間性については高い評価を与えていなかったようである。おそらくそれは、清張が朝日新聞社勤務時代に新聞記者たちの褒(ほ)められない生態を目の当たりにしていたからであろう。そのことは、彼の自伝的なエッセイ『半生の記』(1963年8月~65年1月)を読むとよくわかる。ほかの清張小説に登場する新聞記者のほとんども、尊敬できる人間性や高い見識などとは無縁のサラリーマン記者たちである。たとえば、『翳った旋舞』(1963年5月~10月)では、新聞記者たちは社内における自分の地位のこと、すなわち保身と出世のことが最大の関心であることが語られている。そして、政治部や社会部のような花形の部署ではない資料調査部に配属になった記者などは、次の配属のことしか考えていないのである。 このように新聞記者たちが良くないイメージで描かれているのは、清張の中にある、朝日新聞社時代の怨念のためであろう、という見方もあるかも知れないが、おそらくそうではないであろう。実際の新聞記者の実態が、そうであるようなのだ。そのことは、かつて新聞記者であった人たちの本、高木健夫『新聞記者一代』(講談社、1962年2月)や内藤国夫『新聞記者の世界』(みき書房、1977年2月)、あるいは柴田鉄治『新聞記者という仕事』(集英社新書、2003年8月)などから知ることができる。これらには、保身と出世のことしか考えない、清張小説そのままの新聞記者たちのことが書かれているのである。 もっとも、「投影」(1957年7月)のように、あり得べき理想の新聞記者像を語られている小説もわずかにはある。その像とは、まさに〈社会の木鐸(ぼくたく)〉としての新聞記者である。「投影」はまた、清張小説には珍しく心暖まる物語になっている。 (ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広治)