『光る君へ』手ごわい三条天皇、政治力を強める彰子、そして孤立する道長…熾烈な主導権争いの行方
■ 道長が三条天皇の「一帝二后」案に引き下がったワケ ドラマでは、三条天皇が道長の関白就任を諦める代わりに、道長に「朕の願いをひとつ聞け」として「娍子(すけこ)を女御とする」と言い出した。ここは少し背景の説明が必要だろう。 道長は彰子との間に生まれた敦成親王を第2皇子にもかかわらず、皇太子にすることに成功したが、自身の地位を盤石にするべく他にも手を打っていた。嫡妻の倫子との間に生まれた次女の妍子(きよこ)を、三条天皇が即位する前年の寛弘7(1010)年、まだ皇太子だった居貞親王(いやさだしんのう)に嫁がせていたのである。 ところが、三条天皇には藤原娍子という長く連れ添った妻がおり、第1皇子となる敦明親王をはじめ6人の子をもうけていた。そこで三条天皇は長和元(1011)年2月14日に道長の娘である妍子を立后させながらも、3月に入ると娍子も皇后に立てようと言い出したのである。 ドラマでは提案を受けた道長が「娍子様は亡き大納言様の娘にすぎず、無位で後ろ盾もないゆえ女御と成すことはできませんぬ」と抵抗するが、「関白のことは分かったゆえ、娍子のことは断るでない」と押し切られてしまう。 道長が引き下がったことを不思議に思った視聴者もいるかもしれない。だが、道長自身が、かつて一条天皇のときに、中宮の定子がいるにもかかわらず、長女の彰子を入内させた上に強引に中宮にしている。そんな経緯を踏まえると、三条天皇の「一帝二后」を否定することは難しかったのだろう。
■ 『権記』に記された、道長が息子・顕信の出世を拒んだ経緯 また、三条天皇からの関白就任の要請を固辞した道長は、自身だけではなく、息子の出世まで固辞している。 三条天皇は娍子の異母弟である通任(みちとう)を蔵人頭に抜擢したかと思えば、今度は参議にまで上がらせて、代わりに蔵人頭に道長の三男にあたる顕信(あきのぶ)を上らせようとした。 ドラマでは、道長は通任の参議就任について「通任は半年前に蔵人頭になったばかりでございます。たった半年で参議にするのはいかがなものでございましょうか」と苦言を呈するも、三条天皇は「娍子の弟ゆえに取り立ててやりたいのだ。左大臣も息子たちを取り立てておるではないか」と押し切っている。 そうなると、蔵人頭のポストが空くことになるので、三条天皇は「そなたと明子との顕信を蔵人頭にしてやろう」と提案。だが、道長は「顕信に蔵人頭は早いと存じます」と断る様子が放送された。 このことで顕信は「私は父上に道を阻まれたんですね。私はいなくてもよい息子なのでございますね!」と絶望。道長にとって2番目の妻となる明子からも「私は決して許しませぬ!」と責め立てられてしまった。 道長が顕信の出世を拒んだ経緯については、行成が『権記』に書き記している。行成は道長にこう言われたのだという。 「不覚の者の替わりに、不足の職の者を補される。きっと非難されるだろう」 つまり、「心構えがしっかりしていない通任がついていた蔵人頭に、未熟な顕信をあてがっても、非難されてしまうだろう」といった意味となる。 史実において、道長によって出世の道を断たれた顕信は、19歳にして出家に踏み切ることになる。明子との夫婦関係は完全に崩壊したといってよいだろう。 今回の放送では、三条天皇が人事に介入することで、それを受け入れても拒んでも、道長の求心力が低下していく様が描写された。