郵便制度の祖・前島密の魅力を門井慶喜が語る「かっこ悪くてもこの人はあきらめなかった」「我々にとっても励みになる人生じゃないかなと思います」
放送作家・脚本家の小山薫堂とフリーアナウンサーの宇賀なつみがパーソナリティをつとめるTOKYO FMのラジオ番組「日本郵便 SUNDAY’S POST」(毎週日曜15:00~15:50)。6月2日(日)の放送は、小説「ゆうびんの父」(幻冬舎)の著者で作家の門井慶喜(かどい・よしのぶ)さんをゲストに迎えて、お届けしました。
◆郵便制度の祖・前島密の知られざる一面
小説「ゆうびんの父」(4月17日(水)発売)は、郵便制度の祖と呼ばれ、現在では1円切手の肖像にもなっている前島密(まえじま・ひそか)を描いた長編小説です。 これまで歴史小説を数多く手がけてきた門井さん。そこで小山は、今回なぜ前島密をテーマに描こうと思ったのかを尋ねます。前島密といえば、日本に郵便の仕組みを築いた人物。1円切手の肖像として多くの人に知られていたこともあり、門井さん自身、「(彼に対するイメージは)お堅い人というか、とっつきにくい人かなと思っていたんです」と話します。 ところが、前島密本人が書いた自伝をたまたま読んだところ、「生まれ育ちが非常に特殊であると。江戸時代に生まれているんですけど、当時としては珍しい、いわゆる母子家庭でした。母ひとり、子ひとり。おそらく経済的な理由だと思いますが、寺子屋にも行かず、お母さんが錦絵を買ってきて、幼い頃の房五郎(ふさごろう:前島密さんの幼名)くんに『この人は上杉謙信ですよ。この人が武田信玄ですよ』と口伝てに歴史や言葉を教えたんです。それを読んで、『これは只者ではない』と、すごく人間味がある人なのではないかと思った」と振り返ります。 それがきっかけで前島密について調べていったところ、最初に抱いていたイメージに反してとても人間味のある人物であったことから、前島密をテーマに“書こう!”と思い立ったそうです。 現在の新潟県上越市出身だった房五郎少年は、「(幼い頃は)毎日生きるだけで精一杯で、経済的にもおそらくカツカツですから、世の中のすべてがお母さんと自分のためという世界だったと思います」と話します。 彼のそんな生い立ちを聞き、小山から「房五郎少年にとって人生の最初の分岐点は何なんですか?」との質問が。これに、門井さんは「わりと早い段階で、『もっと勉強をしたいから江戸に行きたい』と10代で言うんです。1人で江戸に行ったものの、まったく人脈も何もないので、そこで房五郎くん自身が貧しい暮らしをするんです。偉い侍の家に入って、それこそ飯炊きや子守みたいなところから始まったんだと思うんです。それをしながら少しずつ勉強をしていったのが大きな転機であり、母との別れにもなります」と答えます。 そして、成長していくにつれて「次は『蘭学がやりたい』と。今で言う西洋医学ですね。『英語を勉強したい』とか『船の勉強をしたい』とか、いろいろ言い出すんです」と彼の学びへの意欲に触れます。 そんななか、彼にとって大きな衝撃をもたらしたのが、ペリーの来航でした。日本中が大騒ぎとなり、彼もペリーの船見たさに浦賀まで足を運んだそう。そこでペリーの船を目の当たりにし、「『あぁ、これはやばい』というふうに発想が一気に国家に向くんですね。それまで『自分1人で勉強したい』だったのがいきなり“バーン!”と視野が広がるんです」と言います。 頭ではそう思いながらも、結局、何もできずにいたとか。というのも、当時の彼は力も人脈もなく、「頭だけは先に行って『何かしたい、何かやらなきゃ』と。でも、ちまちまと勉強していたような時期が結構長く続いていましたが、本人は勢いに任せて函館に行ったりしています」と説明します。 なぜ函館だったかというと、ペリーの来航によって函館が開港し、外国船が来るようになったためで、「そこに行けば船の勉強ができるんじゃないか、というので船の操り方を一生懸命勉強して、船乗りとして日本一周ができるまでになるんです」と門井さん。 その後、「江戸幕府が終わった時点では、幕臣、幕府の一員に身分上なっていたんです。前島密は頑張って、そこまで(の身分まで)は来られたわけです。でも、明治政府になると、政府に逆らった逆臣の一味ですから、徳川家と一緒に静岡に追いやられて、そこで官職に就くんです。(その当時は)30歳になっていたと思います」と彼の人生について言及します。 そうして前島密は転々としていましたが、「お母さんはその間もずっと新潟にいるわけですから、手紙のやり取りというのはこの人の人生では相当重要だったろうなという気はします」と門井さんは推測。 これに宇賀が「その時代も、手紙は一応送れたんですね?」と質問すると、門井さんは「飛脚制度があったので送れるのですが、信頼性が低く、出したら必ず届くわけではなくて、不達率が結構高かったんですね。なので、飛脚を使わないで誰かに託すとかはありましたね」と補足します。