『光る君へ』平安時代の総人口1000万人に対して貴族は500人足らず…その宮中の物語を描いた「ドラマ」を歴史学者・本郷和人はどう見る?
◆「国風文化が盛んになった」とされる理由 明治維新の時もそうですが、諸外国と自らを比較しながら、緊張感をもって国家の変革を行う。こういう時に日本人は一生懸命に勉強し、驚くほどの能力を発揮します。 日本が独立国としての実力を蓄えたのは、古代でも近代でも、やはり外国との「比較」を通じて、ということがいえるでしょう。 ところが都が山城・平安京に移って100年もすると、東アジア諸国は直接の脅威ではなくなっていきます。それにつれて「足りない部分は外国に学べ」という意欲も減衰し、遣唐使も派遣されなくなり、日本のエリートの視点は内向きになっていく。 これが「国風文化が盛んになる」と教科書が説く状況の前提にある国家的な動向だと思います。 律令を懸命に整備していたとき、為政者たちは確実に、日本の民衆の動向を意識していたでしょう。様々な階層の人々がいきいきと生活することによってのみ、国力は増進し、軍事力は整備され、かりに他国から侵略を受けても戦うことが可能になる。 でもそうした時期が遠くに過ぎゆき、どうやら他国との争いはなさそうだ、となったときに、彼らが見る景色は次第に狭まっていった。
◆平安時代の貴族は500人くらい 『伊勢物語』で主人公の「男」(在原業平がモデルともいう)は、帝に嫁ぐべき高貴な「女」(藤原高子がモデルという)を連れて京を脱出します。ところが大阪まで逃げたときにそこに「鬼」が出現し、あわれ「女」は食べられてしまう。 藤原氏の追手により高子が連れ戻されたことを意味していると思われる表現ですが、平安貴族たちにとっては、大阪は「鬼」が出現する魔境なのです。また『源氏物語』では光の君が須磨・明石に移り住みますが、「『鄙』にも稀な美人」と巡り会う。明石も、鄙=田舎、なのです。 かつて仁徳天皇は「民の竈(かまど)」の様子を注視された。でも、大阪や明石を田舎、と断じるこの時期に、平安貴族たちはどれほど「民の生活」への責任を持とうとしていたか。光の君は朝廷のトップである太政大臣に昇進しますが、もちろん彼がどんな政治を行ったかは、『源氏物語』には描かれていません。 平安時代の日本列島にはおそらく1000万人くらいの人が住んでいた。貴族は500人くらいでしょうか。 その500人が1000万人と密接に結びついていた、というのなら、500人の動向を分析する元気が沸いてきますが、どうもそうではないらしい。この点で、平安時代の宮中の物語は、江戸時代の大奥とは性質が異なるように思える。
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