《記者コラム》ブラジルで共同体再建図った黒人奴隷の歴史再考
ズンビーはアフリカのジャガ族王女の甥
では、なぜ11月20日が「黒人意識の日」かといえば、逃亡奴隷共同体キロンボーラ・ドス・パルマレスの指導者ズンビー(1655-1695)の命日が、1695年11月20日だからだ。白人支配に対するレジスタンス運動の英雄として黒人コミュニティで崇められている。 ここは現在、北東ブラジルのアラゴアス州ウニアン・ドス・パルマレス市に属する地域で、首都マセイオから約78Kmにある。 アフリカから連れてこられた黒人奴隷が、ポルトガル人などに売買されて働かされていた農場を逃げ出して、内陸部などの人目につかない山中や森の中に作った逃亡部落がキロンボーラだ。現在でも「キロンボ」という地名は全伯に散らばっているが、みなそのような出自を持つ場所だ。 「キロンボ・ドス・パルマレス」は当時最大の逃亡奴隷共同体で、その人口は最大で3万人にも達していた。農場、刑務所、奴隷宿舎から逃げてきた黒人奴隷は独自の戒律を持つ共同体を組織し、ポルトガルに近い面積を占めていた。
ズンビーは指導者ガンガ・ズンバの甥であり、このガンガ・ズンバは軍事的な伝統と優れた戦士を持つジャガ族(またはインバンガラ族)の王女アクアルトゥンの息子だった。 2019年9月8日付オブセルバトリオ・テルセイロ・セトール《国民の自由のために戦ったブラジルの奴隷王女》(4)によれば、《アクアトゥンはアフリカの王女で、コンゴ王の娘だった。16世紀の終わりに、彼女の国は傭兵グループによって侵略され、彼女が約1万人の男女からなるグループを指揮して侵略者に対抗したにもかかわらず、敗北した。敗北により、王女は捕まって奴隷市場に連行され、そこからブラジルに送られた。 彼女がレシフェに到着したのは1597年で、同年に40人の逃亡黒人グループがセーハ・ダ・バリガに到着し、後にキロンボ・ドス・パルマレスとなる地域の最初の中核を形成した》とある。
この辺の情報は伝承や伝説の寄せ集め的な側面が強く、歴史的事実としては諸説あるようだ。 ウィキペディア(5)によれば、ブラジルに到着した後、彼女はガンガ・ズンバと彼の兄弟を出産し、約20年間キロンボ・ドス・パルマレスのリーダーであった。 今風の言い方をすれば、ズンビーはコンゴ系3世だ。コンゴ王国の王家の血筋を引く人間として、白人支配から解放されるために生涯を戦いの中で過ごした。「ズンビー」という言葉はアフリカの言語キンブンドゥ語のズンベに由来しており、幽霊、亡霊、死者の魂を意味するという。 フォーリャ紙年表《キロンボ・デ・パルマレスの年表》(6)にあるように、キロンボはたびたび植民地総督府から軍隊を送られて壊滅させられそうになるが、待ち伏せなどで対抗し、1世紀前後も持ちこたえたようだ。 だが1695年11月20日、レシフェの植民地総督府が送り込んだ討伐部隊によってズンビーは殺された。彼の首は切り落とされ、塩漬けにされ、メロ・エ・カストロ総督のもとに運ばれた。レシフェでは、ズンビーの不死伝説に対する住民の信念を否定する目的で、パチオ・ド・カルモ広場で頭部がさらされた。