征夷大将軍と知られる「坂上田村麻呂」は鬼退治の名手として活躍していた⁉
古代の征夷大将軍として歴史の教科書に登場する坂上田村麻呂。実は田村麻呂は全国各地に「鬼退治」の伝説を残す人物でもあった。 ■蝦夷を征伐した名将が大嶽丸や悪路王退治に奮戦 生没年 天平宝字2年(758)~弘仁2年(811) 退治した鬼 大嶽丸・悪路王・魔王丸ほか多数 大江山(おおえやま)の酒呑童子(しゅてんどうじ)も恐ろしいが、それと並び称されるほど人々に恐れられたのが、鈴鹿山(すずかやま)を根城(ねじろ)とする大嶽丸(おおたけまる)であった。酒呑童子は身の丈2丈(約6m)というが、こちらはさらにその上。何と、10丈(約30m)にも達するというから開いた口が塞がらない。これを退治したと言い伝えられるのが、かの名将・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)であった。 史実としては、桓武(かんむ)天皇によって征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて蝦夷(えみし)征伐に赴き、大きな成果をあげたことで知られる御仁である。蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)と副将・母礼(もれ)を兵500余人とともに降伏させたことでも知られている。死後は立ったまま埋葬され、京の都の守護神にまで祭り上げられている。 その英雄が退治したとされる大嶽丸とは、飛行自在で火の雨を降らせ、雷をも落とすことができたという強靭(きょうじん)な鬼神だったというから、勅命を受けて討伐に向かった田村麻呂(俊宗/としむね/あるいは田村丸の名で登場)も、討伐には苦慮したようである。3万もの兵を投入したものの、数年たっても、討伐は叶わなかったとか。 ここで登場するのが妖艶な美女・鈴鹿御前(すずかごぜん)であった。彼女が大嶽丸を色香で惑わし、事態が急展開。大嶽丸の身を守っていた3振りの宝剣(三明の剣)のうち2振りを取り上げることに成功。激闘の末、ついに俊宗が投げた剣によって、大嶽丸の首が斬り落とされたのだ。のちに天竺(てんじく)に残しておいた最後の一振りの霊力によって生き返ってしまうが、名剣・そはやの剣によって再び斬殺。その首は藤原氏の氏寺であった現・宇治平等院(うじびょうどういん)の宝蔵(ほうぞう)に納められたとされている。以上が『御伽草子(おとぎぞうし)』に記された説話「田村の草子」であった。 この田村麻呂が退治した鬼は数多く語り継がれているが、大嶽丸とともに忘れてならないのが、奥州逹谷窟(たっこくのいわや/岩手県平泉町)を拠点としていたとされる悪路王(あくろおう)の退治物語だろう。ただし、悪路王退治に、本来なら田村麻呂の1世紀も後の人物であるはずの藤原利仁(としひと)の名も加えられているというのが少々不思議。 ともあれ、「大きな桶に人間を鮨のように漬けていた」とか「幼児を串刺しにした」、あるいは「貴族の館に忍び込んで娘をさらった」などの悪事を働いていたとも言い伝えられて恐れられた悪路王。史実として田村麻呂に討伐された蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)がモデルだったと見なす説も気になるところである。 またその舞台は、『御伽草子』の『立烏帽子(たてえぼし)』では近江国鈴鹿山になっているのが興味深い。この辺りは古くから盗賊がはびこるところで、要衝(ようしょう)でありながらも、治安の悪さに朝廷が苦慮していたことがうかがい知れる。国司と雖(いえども)手に負えず、鎌倉時代に入ってようやく御家人・山中俊直が盗賊を退治したことでひと安心。以後、山中氏が代々鈴鹿峠の警備を任されるようになったのだとか。 ともあれ、平安時代までこの辺りの治安は最悪で、それがこのような鬼物語に結びつけて語られるようになったのかもしれない。鬼の姿も、8つの頭に目が数多く散らばるという奇怪さで、それも盗賊を恐れるがあまりのことだったのだろう。 ちなみに田村麻呂は、ここでは田村五郎利成の名で登場。女盗賊・立烏帽子に惚れ込んだ田村五郎利成が、悪鬼(阿黒王/あくろおう/の名で登場)を射殺した後、めでたく2人は結ばれている。 その他、彼が退治したとされる鬼は数え切れないほど多い。近江国の高丸(たかまる)や安曇野(あずみの)の魏石鬼八面大王(ぎしきはちめんだいおう)と妻の紅葉鬼神(もみじきしん)、熊野(くまの)の金平鹿(こんへいか/多娥丸/たがまる)、奥州の藤原千方(ふじわらのちかた)の四鬼(よんき)など、名だたる鬼どもをことごとく討伐。超人的な活躍ぶりであった。いずれも史実とは言い難いものの、田村麻呂の足跡を伝えるものだったに違いない。後に武神とまで祭り上げられたその武勇、それにあやかりたいとの願いが込められたものであったことは言うまでもないだろう。 監修・文 藤井勝彦 歴史人2023年6月号「鬼と呪術の日本史」より
歴史人編集部