ネット社会の生みの親の一人、テッド・ネルソンが語る現在・過去・未来
■ 映画制作者だった父親 米ブラウン大学3年生の時、私は非常に野心的で、常に大きな哲学論文を書いていました。 【写真】若き日のテッド・ネルソン。IBMと勘違いされたコンピューターストアを始めたころ 私はそれを「スキーマティクスについて」と呼びました。これは、構造と世界の関係を意味します。 後にそれは、ケント州立大学(オハイオ州)での私の博士論文になりました。書き直しましたが、それでも良い論文でした。 映画制作について話したいと思います。実は、私は映画制作者になろうと思っていました。私の父は映画制作者です。 私の両親は私が生まれて2年後に離婚し、私はマンハッタンで母方の祖父母に育てられました。 私はケント州立大学で1本の映画を制作しました。これは今でもユーチューブで見ることができます。 そして、映画の編集、つまり、持っているすべての映像を正しい順序に並べることは、信じられないほど難しい作業であることを学びました。 ネルソンの映画編集に関する法則というのがあります。 n分の撮影をすると、編集には少なくともnの2乗分かかるというものです。 私は40分のフィルムを持っていて、編集にはひと夏かかりました。しかも、それはサウンドトラックを入れる前のことです。 つまり、創造的なプロセスは分野によって異なりますが、どの分野にも理解する必要のある複雑さがあります。
■ エンゲルバートはどんな人物だったのか ソフトウエア設計について言えば、私は使いやすさを重視したソフトウエアを設計しようとした最初の人間の一人だと思います。 そして、それには長い時間がかかりました。 ダグラス・エンゲルバートについてもっとお話ししましょう。 エンゲルバートはノルウェー語で「天使のあごひげ」という意味です。 ノルウェーの天使にはあごひげがあるんですね。 彼は米国の北西部、シアトルで育ちました。そして、第2次世界大戦中に海軍に従軍し、フィリピンに6か月間滞在しました。 その間、彼はヴァネヴァー・ブッシュの有名な記事を読みました。 人々はヴァネヴァー・ブッシュと言いますが、正しくはヴァンナー・ブッシュです。 その記事は「As We May Think」というタイトルで、最初は「Harper's Magazine」に、次に「Life Magazine」に掲載されました。 私の家では、両方を読んでいたのです。その記事は、メメックスと呼ばれる機械を想定していました。 未来の学者は額にカメラを付けて、ページをめくるたびに、撮影したこれとこれを結びつけると彼は考えていたのです。 彼はそれを「トレイル」と呼びました。 私は彼に電話して、それに取り組むことに興味があると伝えましたが、彼に電話をかけ直すことはありませんでした。そうすべきだったのですが・・・。 彼が「トレイル」と呼んだものは、本質的には現在のリンクです。 しかし、リンクは個々に存在し、長いリンクのチェーンはあまりありません。一部の人は作るかもしれませんが・・・。