ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (27) 外山脩
上塚周平は、笠戸丸が日本出発直前に皇国殖民に採用されており、仕事の詳細は知らなかった。それがブラジル入り早々から、会社の代理人として水野の不始末の尻拭いに、心身を擦り減らす羽目に陥った。 通訳五人男も、引っ掛けられた口であった。 通訳の社会的地位は低かったのだが、彼らは日本で水野の法螺を信じて、外交官並みと思い込み、山高帽に黒のスーツという出で立ちでサントス埠頭に降り立ち、出迎えた南樹を呆れさせた。実際の通訳は、鳥うち帽子にニッカーボッカー、足にはポライーナス(脚絆)……という身拵えであった。 身につけるモノから取り換えねばならなかったが、その費用を水野は━━大きなホテルに泊まっていたのに━━出さなかった。丁度その時、南樹に州政府から英貨五〇ポンドの手当てが出た。公使館の三浦通訳官の配慮で南樹は通訳扱いになっており、渡航費が支給されたのである。(通訳の渡航費は、州政府の負担になっていた) 水野は、この五〇ポンドを南樹から借用して、身仕度を整えさせた。 その様にして、彼らはファゼンダ入りしたのだが、結果は惨憺たるものであった。 平野運平を除く四人は短期間で解雇されたり辞めたりした。 通訳はファゼンダの雇用人であり、月々の給与もそこから支払われていた。従って、これは収入の杜絶を意味した。 彼らは皇国殖民を頼った。が、こちらも資金的に窮地に追い込まれていた。間もなく倒産する。 そういう状況下、彼らはどうしたか? 加藤順之介は、口癖のように皇国殖民と水野を悪魔の如く痛撃、詐欺師呼ばわりをしていた。 仕事はフランス人宅の下男などをしたが、転落を続けた。二十数年後の一九三六年、ノロエステ線リンス駅の傍の邦人営業のペンソンで病死した。物置小屋で糞尿に塗れていたという。 嶺昌も、やはり働き口を探して転々……という暮らしを続けた。が、幸いサントスにできた日本領事館に職を得た。但し一九二七年に病死している。 大野基尚は、沖縄県人の世話役の城間真次郎と相談、同県人五十数人を連れて、ノロエステ線建設の工事現場へ賃稼ぎに行った。しかし風土病に集団感染、就労者は七、八人になってしまう。この時、感染者の内の二人が死亡している。 大野はその後リオへ移り、日本の拓務省関係の仕事をしていた。が、帰国した。 彼はブラジル時代「話術の名人」「押しの強い人」と評されたが、後に大分県の郷里で八年間、町長を務めた。前出の著の中で水野を「移民を騙した許しがたい悪人」と記している。 仁平高は夫婦仲がうまく行かなくなり、離縁した。夫人は帰国した。一人となった仁平は生活に窮し、橋の下で夜を過ごすこともあった。が、やがて、ある移民一家の娘さんと再婚した。美人であったという。しかし、それも束の間、仁平が肺を病む。 妻を親元に返し、日本へ帰った。以後の消息は不明となっていたが、半世紀以上も経ってから、郷里の秋田魁新聞の調査により、一九一八(大7)年、東京の聖露加病院で死亡していた事が明らかになった。 南樹もズタズタにされた口であった。 彼は水野と知り合った頃は尊敬していた。水野のボロが出始めた頃にも庇っていた。しかし次第に、その感情は冷えていく。これは次のような事情もあった。 笠戸丸到着後、水野は、それまでの南樹の二年余の労に報いなかった。それどころか、前記の南樹が用立てた五〇ポンドすら返済しなかった。さらに、通訳が不足したため、南樹をサン・マルチニョへ行かせた。南樹は気が進まなかったが、止むを得ず応じた。移民収容所の職は捨てた。ファゼンダでの給与は月二〇〇ミルで、収容所よりかなり少なかった。