「取られたら倍返しや」他球団を震撼させたローズ、中村紀、礒部の超強力打線【平成球界裏面史】
【平成球界裏面史 近鉄編79】ローズが近鉄史上最強助っ人をうたわれるのは平成13年(2001年)の活躍があったからに他ならない。来日6年目で経験、体力、技術のベクトルが絶妙のバランスで整ったタイミングだった。 【写真】アフロヘアにイメチェンしたローズ このシーズンは結論から言うと、140試合にフル出場し、180安打を重ね、打率3割2分7厘、55本塁打、131打点、OPSは1・015と驚異の数字をたたき出した。シーズン終盤での大逆転でのパ・リーグ制覇には、間違いなく欠かせない存在だった。 近鉄は梨田監督が就任1年目だった前年、平成12年(2000年)まで2年連続の最下位だった。「いてまえ打線」が象徴するように攻撃力が武器のチームではあったが、投手陣とのバランスがかみ合わなかった。それでも「取られたら倍返しや」の合言葉のもと、野手陣はお構いなしで打ちまくった。 近鉄打線の活性化の傾向は優勝前年の平成12年(00年)の途中から顕著に表れ始めた。同年6月までは3番・中村紀洋、4番・ローズの編成がほとんどだった。だが、7月に中村が梨田監督に自身の4番、ローズの3番を進言。そこから平成13年(01年)型の打線が定着していった。 当時の中村は「ローズの後ろに自分がいることでフォアボールを出しづらくなって、ゾーンで勝負してくることが増える。そうなると長打も増える。さらに、後ろに俺がいるから無理にボール球を打ちにいかんでもええと考えるだろうと思った」と意図を説明していた。 平成13年(01年)は3番・ローズ、4番・中村、5番・礒部が定着した。この礒部が捕手を辞め外野に専念し、5番で3割を超える打率を残せたことが近鉄打線にさらなる好循環を生んだ。 当時のパ・リーグ球団のスコアラーは「ノリがいるからローズとの勝負を避けにくい。礒部がいるからノリとの勝負も避けにくい。ローズと礒部が並んでないから左投手も投入しづらい。ややこしい打線やったね」と苦労を振り返る。 実際、01年の開幕戦は3月24日の日本ハム戦(大阪ドーム)では1回にいきなり開幕投手の門倉が5失点したが、7回には5番・礒部の3ランなどで逆転。結局、10-9で試合に勝利してしまった。両軍合わせて8本塁打という超乱打戦を制した結果だった。 4月終了時点で首位スタート。だが、超攻撃型チームであるがゆえの波があったことも事実だった。このシーズンの78勝のうち41勝が逆転勝ち。7月17日のロッテ戦で、9回5点ビハインドから8得点を挙げ逆転勝ちしたゲームが象徴的だった。 前半戦終了時点で平成3年(1991年)以来の首位ターン。とはいえ5位のロッテと5ゲーム差、最下位の日本ハム以外は勝率5割以上をキープするという超混戦のペナントレースだった。 近鉄は終盤の9月3日から5連敗。9月5日の時点でダイエーと同率首位、3位に1厘差の西武という状況で5位までが6・5ゲーム差とまだまだ分からない状況。ただ、ここから後の近鉄は奇跡的な快進撃を続けることになる。 その中心にいたのは、偉大な記録とも戦い続けていたローズだった。
楊枝秀基