『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】
橋本プロダクションと『砂の器』
野村芳太郎らによって、1971年に企画候補に上がった『八つ墓村』が、具体的に動きを見せるのは、1974年10月19日に公開された松本清張原作の『砂の器』(74)が大ヒットするのを待たなければならなかった。 『砂の器』は実現までに14年の歳月を要した。清張原作の『張込み』(58)を成功させた野村芳太郎×橋本忍コンビを起用して、松竹が引き続き同じ布陣で清張ものを映画化しようと画策し、読売新聞で連載中だった同作の映画化が決まった。当時まだ助監督だった山田洋次も脚本に参加し、複雑な原作を映画的に再構築した脚色の際立つシナリオが完成した。加藤嘉をはじめキャストも一部決定するなど順調に撮影準備が進み、桜の場面は先行して撮影に入っていたほどだった。 ところが、松竹社長の城戸四郎の強硬な反対によって映画化は見送られた。その理由は諸説あるが、それから映画化権が更新される2年ごとに、映画化の話題が出ては消える幻の企画となった。 そうした状況に変化が訪れたのは1973年。橋本を中心とした映画・テレビ製作を目的とした橋本プロダクションが設立された。参加者は、映画監督では野村芳太郎(松竹)と森谷司郎(東宝)、テレビからはTBSのプロデューサーである大山勝美ら、錚々たる8人の顔ぶれが集結した。もっとも大々的に旗揚げされたわけではなく、企画勉強会として、ひっそりスタートしたにすぎなかった。第1回作品に『砂の器』が発表されるまで、この異能集団の存在はほとんど知られていなかった。彼らが目指したのは、映画会社、テレビ局の内部にいては実現できない企画――つまりは、時間と金をかけた作品である。野村が当時の心情を語っている。 「監督がどんな映画を作ろうかということまで神経を使わないと、ただただ予定されたものを作っているだけでは、監督は生きていけない時代がだんだんきたような気がするんです。(中略)テレビその他の映像がこれだけ氾濫している中で、料金を取ってみせる映画はそれだけのボリュームといいますか、価値観がなければ、とても入場料を払って映画を見にこないという時代になっている」(『NHK人生読本(5)』) 橋本プロが、映画会社によって製作不可の烙印を押された『砂の器』や、現地ロケを敢行した『八甲田山』の映画化に挑んだ理由はそこにあった。とはいえ、橋本プロの設立で『砂の器』が一挙に実現したわけではない。独立プロダクションにおける最も大きな問題は、劇場を確保することにあった。どんなに豪華で優れた映画を作ったところで、かける劇場がなければ製作費の回収もままならない。全国に配給チェーンを持つ大手映画配給会社と組む必要がある。 これまでの関係から、橋本プロは松竹に提携を持ちかけるが、城戸社長は、それでも製作に反対した。橋本はもはや松竹では芽がないと判断し、東宝に企画を持ち込む。東宝からの条件は、監督に野村を起用することだった。しかし、松竹と専属契約を結ぶ野村が東宝で監督するためには、貸し出しを松竹に認めさせるか、専属契約を解除する必要があった。プロデューサー資質の強い野村は、日本映画の閉塞状況を実感していただけに、「自分のやりたい作品が実現しないのでもうこれ以上は」(『映画の匠 野村芳太郎』)と松竹での限界を感じる。そして、橋本プロが松竹に野村の貸し出しを持ちかけると、社内では動揺が広がる。山田洋次と共に松竹の屋台骨を支える野村に東宝で『砂の器』を撮られては、松竹は物笑いの種である。ここにいたって、ようやく『砂の器』は松竹と橋本プロの提携で映画化が実現することになった。 公開後の反応については、その年の日本映画配給収入3位、毎日映画コンクール大賞、脚本賞、監督賞、音楽賞、キネマ旬報脚本賞といった受賞歴を記すだけで十分だろう。 そして、『砂の器』に続いて橋本プロは、野村芳太郎が企画を提案していた『八甲田山』にとりかかる。野村によれば、橋本プロではこの2本に続いて、「実はその次に“八つ墓村”って云うのがあったわけで、これは商売になるぞと」(『黒澤明研究会誌』No.8)と、正式なラインナップとしては発表されていなかったもの、橋本プロでの第3作として『八つ墓村』が予定されていたと明かす。しかし、紆余曲折の末、最終的に『八つ墓村』は松竹の単独作品として作られることになるが、そこまでには、まだ長い道のりが残されていた。