歌舞伎町で遊び、デビューで大ヒット連発、6年間干されるも再ブレーク――SAMとDJ KOOが振り返る青春時代とTRFの30年 #ニュースその後
SAMといえば、代々が医者の名家の出身として知られる。毎夜ディスコに通う高校生に、両親はどう反応したのか。 SAM「高校2年の時、ディスコが好き過ぎて、家出したんです。で、親と初めて腹を割って話した時に、父親が『居場所をちゃんと伝えて、学校にちゃんと行けば、あとは自由にしてていい』って言ったんです。内心、ラッキーって(笑)。そこから毎晩ディスコです」 DJ KOO「僕のディスコデビューは、高校出てから。ずっとギタリストになりたいっていう夢はあって、それを諦めてディスコに行った感じ。ソウルファンキーなダンサー、モデルさんとかきれいな女性もいたり、不良のたまり場だったり。いろんな人たちがいるなか、DJだけはしっかりと居場所があって、みんなを踊らせてる。これはかっこいいなと思って、この世界へ。当時、まだ親にも『何になりたい』とはっきり言える状態じゃなくて、神田外語学院に行かせてもらってたんだけど」
SAM「英語、しゃべれるようになった?」 DJ KOO「なってない(笑)。でも一応、通ってました。で、友達の家に居候したりしながら、ディスコの見習いに入って。当時は見習い、セカンド、チーフみたいに昇進していくんですけど、見習いからちょっと上がったら12万円もらえた。当時12万円っていうと、大卒に近いぐらいの給料だったんで、親には納得してもらえたんですよね。やっぱり当時の親からしたら、『DJって何?』の世界だから」
trf結成も「?」の連続
二人にとって、小室哲哉との出会いは、運命的なものだった。小室に強く憧れ、弟子入りするようにしてスタジオに入り浸ったDJ KOO。ダンスチームとして活動している時、SAMは小室に見いだされ、「今度はオリジナルの音で踊ってみない?」と誘われた。DJ KOOはいまだに当時の小室のスケジュール帳を持っているという。 DJ KOO「わけわかんないDJを『あいつ、何?』って言わないで、ずっとそばにいさせてくれた。当時小室さんは、マンションの一室をスタジオにしてて、やがてワンフロアが全部スタジオになって。こっちで篠原涼子ちゃんが詞を合わせてたら、あっちでKEIKOがボーカルを入れてる、みたいな。小室ファミリーが出来上がっていくさまを、この目で見られたのは本当に貴重でした。その頃に、どっかのスタジオですれ違ったりしてたんだよね。デビューライブの前に合宿やるということで集められて『trf』が結成された」 SAM「『何でいんの、KOOちゃん』みたいな。ボーカルのYU-KIもレコーディングスタジオでブースから出てきて。ボーカルがいるっていうのも、DJがいるっていうのも、僕らは聞かされてないんです、何も。当時僕たちは歌手のバックでは絶対踊らないというポリシーを持ってて、ボーカルが出てきた時には『は? 俺たちにオリジナルで曲書いてくれんじゃないの?』って。小室さんの頭の中には構想があったと思うんですけど、あの人は何も説明してくれないんですよ(笑)。その都度、ことがアップデートされていくみたいな感覚で。だから、驚きの連続っていうか、もう『?』の連続」