「平等」な社会のための遺伝学
「平等」とは何か
――ゲノムを構成する個々の要素と測定可能な人々の特徴との相関を調べる「GWAS」(ゲノムワイド関連解析)に見られるように、テクノロジーは飛躍的な発展を遂げていますが、最終的にどの遺伝的バリアントがどの形質に関連しているかが分かれば、社会を「平等化」するために人間の遺伝子を編集してもいいという考え方もあります。しかし、そうしたテクノロジーが悪用されれば、かえって不平等が広がる可能性もある。社会というコンテキストの中で、「平等」をどのように定義しますか? それは非常に素晴らしい質問です! その問いが意味するのは、CRISPR-Cas9(DNAを切断してゲノムの任意の場所を改変できる技術)やポリジェニック胚スクリーニング(PES:遺伝子変異と特定の疾患のリスクの関連性を測定すること)といった新しいテクノロジーが水面下でくすぶっていた葛藤や価値観を表面化させたときに、なぜ我々を不快にさせるかを考えざるを得ないということです。「平等」が何を意味するのか、「平等」の定義の中にあるテンションは何かということをより深く考えさせられます。 平等との関係で遺伝学という言葉を耳にするとき、人は「sameness」(同じであること)の角度から平等であると考えがちです。遺伝子に介入するテクノロジーがあるのなら、平等を達成する唯一の方法は、人を生物学的により同じにすることであると考えたくなりますね。 ここで我々は、「disability justice」(障害者の正義:障害と人種、階級、性別といった他の抑圧構造やアイデンティティとの関連に注意喚起を行う社会正義運動)から多くの教訓を得ることができます。繰り返し指摘されてきたように、障害者にとっての正義とは、肉体を他の人と同じようにすることではなく、社会に参加して社会を楽しみ、社会の中で機能する能力を他の人と同じようにすることなのです。私はこの教訓を深く心に刻み、平等について考えてきました。 我々の関心は、いかにして生物学的均一性を持つかということにあるのではないのです。考えてみると、生物学的均一性を求める世界には誰も住みたいとは思いません。生物学的に多様性のある世界を我々は求めています。我々はクローンだらけの世界に住みたいとは思わないのです。ユニークな生物的多様性のある世界で開花する平等な機会を、我々は求めているのです。私は「平等」を、ゲノムの潜在的な平等ではなく、社会への参加の平等及び抑圧からの自由・解放と考えます。 余談ですが、私は単一遺伝子病の場合にCRISPR-Cas9などの遺伝子編集を行うことには賛成です。私の友人の娘は単一遺伝子病を持って生まれてきましたが、あまりにも痛みが強く、かなり激しい医学的介入をしなければなりませんでした。受精卵の段階での遺伝子検査で遺伝子変異があると分かった場合、生まれてからの苦痛を取り除くために遺伝子編集をするのであれば、それが安全なものであると分かっている限りは遺伝子編集に賛成です。生まれてくる子どもが苦痛を経験しなくてもいいようにできるのであれば、遺伝子編集を行うべきだと思います。 しかし、それは、「違い」とは何か。「障害」とは何か、「病気」とは何か、という哲学的に際どいイシューを提起します。しかもその手のカテゴリーは絶えずシフトしており、社会的に物議を醸します。例えば、多くの人は自閉症を病気だと考えていますが、中にはそれを「違い」と考えている人もいます。