将軍に愛され、たった8年で大名に…「江戸時代に一番出世した男」から学ぶ"最強の処世術"
■先祖の血筋を重視し、武田信玄を敬愛 ところで吉保の最大のコンプレックスは、自分が成り上がり者であることだった。 そこで先祖の血筋に己の価値を見いだそうとした。じつは柳沢氏は、甲斐一条氏(甲斐源氏)の末裔・武川衆であり、祖父の信俊は武田家に仕えていた。このため吉保は武田信玄を敬愛した。 信玄の玄孫である信興が落ちぶれているのを知ると、自分の屋敷に引き取って面倒を見、元禄13年(1700)には五百石の旗本に登用、翌年、綱吉と対面させて表高家に任じてもらうほどだった。また、家臣が「武田」と名乗るのを許さず「竹田」と改めさせたり、信玄の「百三十三回忌」の法要を主催したりした。 さらに宝永4年(1707)には叶わなかったものの、朝廷に信玄の増官を働きかけている。だから綱吉から信玄ゆかりの甲府の地を与えられたときは、涙が出るほど嬉しかったに違いない。 ■甲府が洗練した文化都市になった功労者 とはいえ、公務多忙により甲府に赴任できなかったので、藩政はすべて家老の藪田重守にゆだねた。藪田は甲府城の山手門外に屋敷を構え、甲府城と城下町の整備、領内を検地して減税を実施するなどの善政を敷いた。用水路の整備や新甲州金の鋳造にも乗り出した。また、甲府領民の粗野な風俗を正し、屋敷の壊れた箇所を修理・修復させ、身だしなみに気をつけさせた。 こうして甲府は「棟には棟、門に門を並へ、作り並へし有り様は、是そ甲府の花盛り」(『兜嵓雑記』)と謳われるように洗練された文化都市になったのである。 なお、藩政は藪田が勝手におこなったわけではなく、吉保が江戸から細かく指示を出していた。そういった意味では、吉保の手腕であった。 さらに「完全な人間はいないと心得よ。大切なのは、見た目ではなく、その心根なのだ。とにかくえこひいきはするな」というように、吉保は家中教育も怠らなかった。
■綱吉に「処罰が厳しすぎる」と諫言 さて、吉保の偉さは、寵臣ではあったがイエスマンではなかったことだ。綱吉への諫言もためらわなかった。 あるときは綱吉に対し「家臣を鼻紙や扇子のように思ってはいけません。あなたの処罰は厳しすぎます。法を適用するときにも、どうか情けをおかけください」と告げている。 吉保の恩人・牧野成貞は「三度、諫言しても将軍が聞き入れてくださられなければ、あとは自分も一体となってそのご意向に添うべきだ」と述べたが、吉保は「それは誤りだ。そうした重臣のために滅んだ家は多い。受け入れてもらえるまで何度でも諫言すべき。それこそが主家の先祖に対する大忠節というものだ」と語っている。 宝永6年(1709)1月、綱吉は死去した。得てして権力者の歓心を買って立身した人物は、権力者の死後すぐに周囲の弾劾を受けて失脚する。ところが吉保は失脚しなかった。布石を打っておいたからだ。 ■主君の死後、あまりに見事な出処進退 綱吉には嫡子がおらず、後継者選定がおこなわれたさい、吉保は強く甲府城主・徳川綱豊(のちの家宣)を推し、次期将軍に決定させた。その経緯から新政権は吉保を粗末にできなかったのだ。 さらにいえば、出処進退が鮮やかだったことだ。綱吉歿後、吉保は何の未練もなくすべての役職を降り、ただちに家督を吉里に譲って頭を丸めて隠居してしまっている。この英断よって、柳沢家には何のお咎めもなかった。それから五年後の正徳4年(1714)11月、吉保は57歳で生涯を閉じた。遺骸は甲府へ運ばれ、自分が創建した永慶寺に埋葬された。 八代将軍・吉宗の時代、直轄地拡大政策のために柳沢家は大和国郡山へ移封となるが、禄高が減らされることはなく、そのまま郡山の地で幕末を迎えたのである。なお、遺言だったのか、吉保夫妻の墓は、永慶寺から武田信玄の菩提寺である甲府の恵林寺に改葬された。 いずれにせよ、見事な出処進退だった。ビジネスパーソンが学ぶには適した歴史的人物ではなかろうか。 ---------- 河合 敦(かわい・あつし) 歴史作家 1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数 ----------
歴史作家 河合 敦