江戸時代の老親介護「担い手は男性メイン」だった納得の理由
その後2年が経過し、義父が完全に盲目となったため、義母一人では心もとないとして、「さこ」と夫は元の家に戻ります。義母の物狂わしさはますますひどくなり、義父は自力で食事もとれなくなっていました。「さこ」は手ずから箸を取って義父に食事をとらせ、背負って寺社へのお参りなども行います。 その後、「さこ」の夫が先に亡くなり、夫の死から1カ月後に義父も74歳で亡くなります。その後、義母は不幸が続いたせいで悲しみ、自然と慈しみの心も生じて、「さこ」と仲睦まじく暮らしました。安永6年(1777年)、領主が「さこ」を孝行者として認め、褒美として米を与えました。
「さこ」の義父は盲目、中風になり、義母は原文でいうところの「物のけのやうになやミ、老いほれて物くるハしくなり、さこを怒りのゝしり」などの症状が出ていることから、精神面の病あるいは認知症に該当しそうです。認知症は記憶障害や見当識障害(時間や場所が分からなくなる)といった中核症状だけでなく、暴言や妄想などを含む行動・心理症状(BPSD)が現れるケースも多いので、それが義母から「さこ」に向けられた可能性が考えられます。
最後の箇所で、義母は息子、夫が亡くなる不幸が続いたため悲しみ、自然と慈しみの心も生じたとありますが、一方で認知症がさらに進行して末期状態となり、極度の意欲低下や寝たきりに近い状態になったのでは、とも推測できます。「さこ」は義父母が要介護状態となりながら懸命に世話していたわけで、現代風にいうと「多重介護」に直面していたといえます。 なお「さこ」や先ほどの「小ゆり」、「くに」の場合は女性・娘が介護の担い手ですが、先に取り上げた武士の介護事例のように、江戸期の介護の担い手は比較的男性・息子が多かったようです。
■老親の介護は誰が担ったか? 『仙台孝義録』を対象とした研究では、要介護となった老親の介護を親族の誰が担ったのかについて割合が算出されています。老親の介護で表彰されている事例は373件あり、そのうち介護者として最多だったのは「男性(実子・養子・継子)」で、全体の52.5%(196件)、次に多かったのが「女性(娘・養女・嫁)」の24.1%(90件)、以下「息子(娘)夫婦」の17.7%(66件)、「子供」の3.5%(13件)と続きます。「息子夫婦+孫夫婦」や「息子夫婦+孫」など1~2件のみ見られるケースも全体の2.2%(8件)ほど見られました。