「責ヲトル」「ソノ必要ナキ」…日米開戦・終戦時の議論克明にメモ 東郷茂徳外相の手帳、子孫が本紙に全面公開 専門家「非常に貴重」
日米開戦時と終戦時に外務大臣を務めた東郷茂徳(日置市出身、1882~1950年)が、在任中の出来事を1冊に書きとめた手帳が南日本新聞に公開された。開戦前の会議のほか、ポツダム宣言受諾の「聖断」を下す昭和天皇の発言、原爆投下後に鈴木貫太郎首相がソ連を通じ米国に「原子爆弾使用の禁止」を申し入れるよう希望したことなどが記される。保管する子孫によると報道機関に明らかにされたのは初めて。専門家は「当時の外交責任者が残したもので非常に貴重。開戦と終戦を同じ手帳に書いたことにも何らかの意図を感じる」としている。 【写真】〈関連〉1941年の東郷茂徳のメモ。左側には東郷が東条英機首相に対し日米交渉不成立の場合は「責ヲトル」(傍線部)と話したことが記される(子孫所有)
東郷は1941年の東条英機内閣で開戦阻止に向け日米交渉に奔走。45年の鈴木貫太郎内閣では終戦実現を条件に入閣した。 手帳は縦13センチ、横7.5センチ。表紙側からは開戦前、末尾側からは終戦時について鉛筆で書かれ、計91ページにわたる。子孫の70代男性=東京都=によると、東郷茂徳が携行したもので、開戦前の記述は直筆、終戦時は秘書官だった婿養子の東郷文彦(15~85年)が茂徳の口述を筆記したという。いずれも在任当時の記録と伝わる。 開戦前の記述は計57ページ。東条内閣発足直後の41年10月20日から、11月5日の御前会議まで書かれている。 11月1日付では「統率部(統帥部か)を信頼して安心。見込(み)確実」(東条首相兼陸相)、「悲観する必要はない」(嶋田繁太郎海相)など開戦に前のめりな軍部の言葉が並ぶ。翌日には戦争回避の対米交渉を担っていた東郷が不成立の場合は「責をとる」と東条に迫ったものの「その必要なき」と応じたやり取りも記される。
終戦時の記述は45年6月15日から8月19日までの計34ページ。広島に原爆が投下された2日後の8日昼、面会した鈴木首相が「蘇(ソ連)を通じ(中略)原子爆弾使用の禁止を米に申し入るることを希望す」と話したとある。その後、宮中地下室で天皇が「原子爆弾あれば水際の戦争も不可能なり。三百年も経てば再起可能なるが如き条件も致し方なし」と述べたとあり、原爆の威力に極めて厳しい認識を持っていたことがうかがえる。 ポツダム宣言を巡り1回目の聖断が下った10日未明の御前会議では、天皇が国体護持を条件に受諾するとの外相案に「賛成なり」と発言し、「軍の云へる所は事実に反するものあり。今時必勝の算ありと云うも信じ難し」と抗戦を訴える軍部への不信を隠さない様子もつづっている。 東郷は戦後、A級戦犯となり、禁錮20年の判決を受けた。服役中に回顧録「時代の一面」をまとめている。子孫の男性は「最重要資料として引き継いだ。開戦と終戦時の外交責任者としての意地と誇りが感じられる」と話した。
手帳の存在は知られていたが、全文が一般に公開されたことはなく、詳しい解読はされていなかった。南日本新聞では子孫の同意と県内外の有識者の協力を得て内容の分析を進めている。 ◇東郷茂徳 鹿児島県日置市東市来町美山出身。朝鮮出兵で島津義弘が連れ帰った朝鮮陶工の子孫。第七高等学校造士館、東京帝国大学卒業後、外交官となる。1941年の東条内閣では日米開戦に反対して対米交渉を担当。45年の鈴木内閣でポツダム宣言受諾に関わった。戦後、A級戦犯として東京裁判で禁錮20年の判決を受け、服役中の50年に死去した。
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