証言台の特攻隊長 捕虜の扱い「国際法は知らず」処刑は前にも~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#57
事件までの2ヶ月は毎日6回の空襲
石垣島事件が起きたのは、1945年4月15日。沖縄戦の最中だ。当時の石垣島の状況を聞かれている。 (委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 特攻隊長の期間は、本事件までは約半年間だった。昭和20年2月半頃から本事件の日まで、毎日午前・午後、各三回ずつの空襲が続いた。特に私の部隊にひどい被害があったときは、1,2回本部に呼ばれた事はあったが、空襲のたびに本部に呼ばれたようなことはない。 〈写真:死刑を宣告される幕田大尉と見られる写真(米国立公文書館所蔵)〉
田口少尉の斬首を見たか
1人目の米兵を幕田が斬首したあと、2人目の米兵に軍刀を振り下ろしたのは、田口泰正少尉だった。 (委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 田口少尉が斬るのは見たが、「落ち着け」と言った憶えはない。田口が斬首しているのを見たとき、少し離れすぎているように感じ、誰に言うともなく「離れすぎているな」というようなことは言ったと記憶するが、刑場で田口を見たか否かはっきりしないが、3人目の処刑の時、後方に見ていたように思う。 自分のしたことはよく憶えているが、田口のことは田口が刀を振り上げたまでは大体覚えているが、その後のこと、及び第三の処刑のことははっきりしない。 処刑場に行く前に士官室で起きた事については、少しは覚えている。副長については、処刑の順序を伝えているのを聞いたように思う。司令の井上大佐、○○がいたのは覚えているが、ほかの士官ははっきりしない。 〈写真:死刑を宣告される田口泰正少尉(米国立公文書館所蔵)〉
自分はやりたいともやりたくないとも思わなかった
(委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 司令から命令を受けた後、司令は飛行士から得た情報を皆に伝えた。それから自分は主計科事務室に行った。司令との間に会議のようなものはなかった。雑談はしたと思うが、それは戦況についての情報であったと思う。命令された後、自分はやりたいともやりたくないとも思わなかった。
捕虜の扱い 国際法は知らなかった
捕虜(俘虜)の扱いについては、国際法であるジュネーブ条約に規定があり、日本はこれに批准はしていないものの、海外で捕らえられた日本人の身の安全を考えて、「準用」していた。戦後の戦犯裁判では、批准したものと同じと見なされている。 また、無差別爆撃をしていた米軍機搭乗員を国際法違反として処罰するときは、軍律会議により判決を得ることが必要であり、軍律会議をひらいたかどうかも量刑を決める焦点のひとつだった。石垣島事件では軍律会議はひらかれていない。 (委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 処刑前、判決を受けた者であるか否か訊ねなかった。俘虜が処刑されるには国際法により、軍律会議で判決を受けたものでなければならぬことは知らなかった。国際法は兵学校を卒業する直前、1時間半及び至2時間、講義を聞いたが、俘虜の取扱法に関することは聞いたか否か覚えていない 〈写真:石垣島事件の処刑の現場(米国立公文書館所蔵)〉