《世界が驚いた日本の公立小学校》密着ドキュメンタリーが映し出す「日本人の作り方」に感じる“納得と違和感”【『小学校~それは小さな社会~』】
新1年生は手を挙げる時、腕を耳にくっつけてまっすぐ挙げるよう習う。教室の机はまっすぐそろえて並べる。靴も靴箱にぴったりそろえて置く。あとで係りの子どもがチェックし、ゆがんでいたら位置を直して評価のマークを付ける。教室の掃除では、ほこりがたたないようほうきは膝より上に振り上げない。給食も自分たちで配膳する。教室の一角に大きな時計が置かれ、制限時間内に食べる。
随所に感じる学校への違和感
こうした姿がすべてナレーションなしで描かれる。いわゆる「ノーナレ」の作品だ。それほど撮影された映像と音声に力があるということだろう。日本の小学校のあるがままの姿を浮き彫りにすることに成功している。それは監督が意図した通り、多くの日本人の基礎を形作り、清潔で治安がいいという日本社会の特質を表していることは間違いない。映画の中で教師が6年生にこう語っている。 「小学校でいろんな決まりがあります。それは社会に出た時にこの学校で学んだ生活面を生かして生きていくっていうためにみんなは生活をしている」 生活面での指導に重きが置かれていることをよく表している。子どもたち自身が掃除や給食の準備をする狙いもそこにあるだろう。しかし、この作品は単純に「日本の小学校は素晴らしい」というものではない。随所に学校への違和感を感じる部分も描かれる。例えば、教師が自らを「先生」と呼ぶこと。私が小学生の時もそうだったが、今見るとやはりおかしい。先生と呼ばれる職種は医師、弁護士、政治家などもあるが、これは相手を尊敬して使う呼称だ。一人称で尊敬語を使うってどうなんだろう。 卒業を前にした6年生に教師が語りかける。 「6年生として自分の殻を破ってほしいなあと先生は思ってます。口だけで殻を破るって言ってても、みんなには伝わらない」
ここで教師は大きな卵の模型を取り出し、自分の頭にぶつけて割った。子どもたちにはバカウケだ。しかしその続きを見ると、結局「殻は破るものではない」という“教訓”が子どもたちに残ったのではないかと思う。教師も子どもも殻に収まることが求められているのだろう。そこに私は小学校のある種の「息苦しさ」を感じた。
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