虐殺の悲劇が感染症研究の起点:ルワンダ出身の順天堂大国際教養学部長 ニヨンサバ・フランソワさん
松本 創一
ルワンダで100万人もの命が失われた1994年の虐殺事件。30年前のこの悲劇で親族50人を亡くし、失意の中で来日したルワンダ出身男性が今、日本で感染症対策の研究者、教育者として活躍している。今年4月に順天堂大学国際教養学部の学部長に就いたニヨンサバ・フランソワさん。アフリカなど発展途上国の感染症死を減らすための研究を進めつつ、日本の若者に感染症対策の重要性を力強く説く。その背景には、絶望を夢に変えた歩みがあった。
感染症に打ち勝つ薬を
「夢」「諦めない」「I can do it」 困難を乗り越えるため、心の中でこの言葉を繰り返してきた。飢えと疫病に苦しむ幼少時代を経て、悲劇的な運命をくぐり抜けてきたからだろう。力を込めて語る言葉はすごみさえ感じさせる。 「アフリカをはじめ発展途上国では、エイズ、結核、マラリアなどの感染症で年間約300万人が亡くなっています。感染症を克服する薬を開発するのが私の夢なのです」 現在の研究領域はグローバル感染症、皮膚免疫学、アレルギー学。中でも皮膚にある抗菌タンパク質の研究を通した、感染症対策への貢献を柱に据えている。
ルワンダ内戦激化で中国から日本へ
医学の道を歩み出したのはルワンダの中高一貫校を卒業し、中国に留学した1988年。北京外国語大学(北京市)で中国語を、中国医科大学(瀋陽市)で医学を学んだ。 中国で整形外科医の資格を得て、母国での医療従事に向け帰国準備をしていた1994年、ルワンダで内戦が激化した。フツとツチの二つの民族対立に加え、それぞれの民族内でも憎悪が連鎖し、各地で隣人が隣人を惨殺。報道などから身の危険を感じ、帰国を断念した。ルワンダ政府の国費による留学支援も途絶え、DJなどのアルバイトをしながら研究に打ち込む毎日になった。 その2年後、ルワンダの弟から中国に手紙が届いた。「お母さんは亡くなった。親族は50人も死亡した」。新政府軍の虐殺行為で、16人いた兄弟は6人だけになった。「神様はどうして私に意地悪をするのか、と絶望しました。でも、私は運良く生きている。何とか生き延びなければいけないと思ったのです」。 しばらくして母国から新政府軍の担当医に就いてほしいと、帰国を促された。だが「家族を殺した政府軍のためには働けない」と、日本人の知人を頼って98年に来日。すぐにフランスに亡命するつもりだったが、知人の紹介や研究者の勧めで、順天堂大で医療に関する研究を再スタートすることにした。 「難民としてフランスに移れば、医師や研究者の夢を捨てなくてはならなかった。日本と日本人は私を救ってくれ、私の人生を変えてくれた」