ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (57) 外山脩
既存の移民の中には、やっかみ半分に、彼らをインテリ移民とか銀ブラ移民と呼ぶ者もいた。 入植者は、一九三九年までに約七百家族、三、七八〇人となった。 ところで永田は何故、この移住地を建設しようとしたのか、また各県の要人や知事たちは何故、参画したのか? この疑問の答えも「背景」の項で考える。 この辺で、息抜きに、雑談を一つ挟ませていただく。 永田稠という人は長命で、戦後一九七三年まで生きた。九十一歳であった。それ以前のことになるが、八十を過ぎても、移民送出に情熱を注ぎ、力行会の教室で、古びた筒袖・袴という身なりで講義をしていた。 しかし日本社会の移住熱は、冷え込む一方で、受講生は年々減少、夜間部など一人という時もあった。それでも永田は気合を抜かず「アマゾンに理想国家を創るのが、わしの夢……」などと語り聞かせていた。 そのただ一人の受講生というのが筆者である。 後年知ったことであるが、永田は若い頃、日露戦争に陸軍の兵卒上がりの少尉として出征、乃木将軍に会ったこともあるという。 政府も…… さらに三つ目の「新しい動き」が生まれていた。日本政府が大型移住地の建設に乗り出したのである。 これは、事情通が聞けば「遂にそこまで来たか!」と感慨を覚える快事であった。 かつて、この国に於ける大型の入植地建設に、日本政府を誘導しようとした人物は青柳郁太郎、上塚周平ほか少なからずいた。 この種の事業は、国の力によらなければ困難なことに気づいていたのだ。しかし長く実現しなかった。 次のような話もあった。 一九一八(大7)年、東京府下豊多摩郡戸塚町早稲田の大隈重信邸を一人の巨漢が訪れた。粗末な詰め襟紺サージの服を着て、書生下駄を突っ掛けていた。声も目玉も大きかった。ブラジルからやってきた山県勇三郎である。往年、日本で活躍していた時代、大隈とは熟知の仲であった。 この時、八十歳の大隈に対し、六十歳の山県が語ったのが、ブラジルに北海道と四国を合わせた位の広さの土地の売り物があるので、これを買い、日本国家の分封をしようという企てであった。分封とは蜜蜂が繁殖し過ぎると、その一部が新しい巣を作ることを言う。 現地に学校をつくり、日本の中学校卒業生を入学させ、人材養成から始めるという構想だった。 ちなみに、明治維新以来、狭い国土に増え続ける人口は、国家にとって頭痛のタネとなっていた。明治維新時の三、〇〇〇万が、この大正期には五、〇〇〇万から六、〇〇〇万に向けて膨張していた。当時、海外雄飛の事業化を図った有志たちは、殆どがこの人口問題を念頭に置いていたといってよい。 山県の話に大隈は興味を示した。それに力を得て、時の原敬首相らにも働きかけた。誰もが卓抜した意見だと首肯した。が、話は進展しなかった。 もし、この企てが具体化しておれば、我が足洗うべしアマゾンの流れ我が衣振るべしアンデスの頂と勇壮な気組を維持して、異国に在って再起を期してきた山県にとって本懐であったろう。が、事成らず、ブラジルに戻り六年後に没した。それから僅か三年後、山県の夢は、規模は異なるが、政府による大型移住地建設という意味では、実現しようとしていた。 一九二七(昭2)年、政府は海外移住組合法を制定、道府県ごとに──民間の協力を得て──海外移住組合を設立、中央にその連合会を置いた。 この連合会に政府資金を融資し、大型の移住地を建設することにした。対象国はブラジルであった。 連合会は、内務省の管轄下に置かれ、二年後に拓務省が創設されると、そちらに移行した。 初代理事長には、前ブラジル大使の田付七太、専務理事には梅谷光貞が就任した。梅谷は、永田稠に県の公金を流用して送金したアノ長野県知事である。 この連合会が、現地の代行機関として有限責任ブラジル拓殖組合を、サンパウロに設置した。かつて存在した青柳郁太郎のブラジル拓殖㈱とは全く別の組織である。普通、ブラ拓と呼ばれた。 そのブラ拓設立以前から、梅谷が移住地の建設準備のため、ブラジル入りをしていた。これに現地側から加わったのが輪湖俊午郎、畑中仙次郎そして古関徳彌らの若手である。