ウインブルドンを制したクレイチコワ、心に秘めた亡き師への思い「ヤナが抱いたプレートを持っているのが信じられない」<SMASH>
両手を突き上げ、天を仰ぎ見る彼女は、右手で自分の唇に軽く触れると、そのままウインブルドンの青空へとかざした。 【動画】クレイチコワのウインブルドン初優勝の瞬間と歓喜の様子 決勝戦の直後に行なわれたセレモニーでは、優勝プレートを手にし、「ヤナが1998年に抱いたプレートを、私がこうして持っているなんて信じられない」と声のトーンをすっと落とす。 2024年の“ザ・チャンピオンシップ”を制したのは、バルボラ・クレイチコワ。チェコ出身の28歳にとって、3年前の全仏オープンに次ぐ2度目のグランドスラム(テニス四大大会)シングルスタイトルであり、ウインブルドン初戴冠である。 49歳で夭逝した98年ウインブルドン優勝者、ヤナ・ノボトナとクレイチコワの師弟関係は、今やテニス界でよく知られた物語だ。 ジュニアキャリアを終えた18歳の日、進むべき道を決め切れなかったクレイチコワは、母親と共にチェコ郊外のノボトナの家を訪れる。 「私は、バルボラ・クレイチコワと言います。先日18歳になったばかりです。良いテニスプレーヤーになるために、何が必要かアドバイスしていただけませんか?」 そんな内容をしたためた手紙を、彼女はノボトナに手渡した。数日後、ノボトナはクレイチコワをテニスクラブに招き、ボールを打ち、そして「ツアーに帯同しましょう」と申し出てくれたという。クレイチコワいわく、「人生が大きく変わった」瞬間だった。 ただ二人三脚の旅は、ノボトナが癌に侵されたため、3年ほどで終焉を迎える。クレイチコワが、生前のノボトナに最後に会った時、師からかけられた言葉は「グランドスラムで勝ちなさい」だったという。 この一連の物語は、クレイチコワが全仏で優勝した際に本人の口から幾度も語られ、広く知られることとなった。ただその後、クレイチコワが、自らノボトナについて語る機会は少なくなる。 その背景にあるのはもしかしたら、師の名に頼ることなく、自分の力を認めさせたいとの思いだったのかもしれない。昨年の3月にはWTA公式インタビューにて、「自分が達成してきたことが、十分に評価されていないように感じる」とも明かした。 今回のウインブルドンでの会見等でも、クレイチコワは、ノボトナについてあまり多くを明かさなかった。ノボトナが彼女に語り聞かせたというウインブルドンでの出来事についても、「かなり前のことだから、正確には話せない」と伏せる。「ウインブルドンにまつわる最も古い思い出」を問われても、「良い質問ね」と返しつつ、「一番大切なことは、言わないようにしているの」とかわした。 言葉数は少なく、表情から心の内を読むことも難しい。 ただその彼女が、感情を抑え切れない場面があった。ウインブルドンのクラブハウスには、歴代優勝者の名が刻まれたプレートがある。優勝後、クラブ関係者に先導されプレートを見に行くクレイチコワを、カメラが追っていた。 そのプレートの前に立った時、彼女は目元を覆って涙を流し出す。手渡されたティッシュで拭うも、溢れる涙は止まらない。肩を小刻みに震わせ、彼女はその場から、しばらく動くことができなかった。彼女の目に映っていたのは、自分の名が並ぶ隣の列……すぐ近くに刻まれた、ヤナ・ノボトナの名前だった。 現地取材・文●内田暁