今こそ知りたい!! 耐久レースを席巻したホンダの無敵艦隊「RCB1000」の使命とは?
市場の優位を取り戻せ! 不沈艦「RCB1000」の栄光と伝説
ホンダは1966年、マン島TTレース出場宣言から12年で世界GP制覇を成し遂げ、翌1967年限りで世界GP参戦に終止符を打ちます。その後のロードレースは2ストローク車全盛となる一方、アマチュアレーサーも参加するヨーロッパの耐久レースでは、長時間走行することもあり市販の4ストローク車を改造したマシンを中心に盛り上がりを見せていました。 【画像】ホンダ「RCB1000」(1976年型)の詳細を画像で見る(10枚)
そこで大型スポーツバイク開発で先行していたのは欧州車でしたが、より強力なホンダ「CB750フォア」(1969年)の登場で勢力図が変わります。1970年代初頭からの耐久レースは、4ストロークエンジンの日本製4気筒マシンが活躍する時代となりました。白熱するレースに観客もエントラントも盛り上がっていきます。 ホンダ車ではイギリスやフランスの現地法人やディーラーチームが参戦し、優勝することもありましたが、次第にホンダ車以外の日本製マシンがレースを席巻していきます。 そのレベルが上がるにつれて、表彰台はレースのプロであるコンストラクター同士の戦いとなり、同時にそのレース結果は市販車の売れ行きにも大きな影響を及ぼしていました。 ホンダ本社は現地法人からの要望に応え、大型スポーツバイク市場の宣伝活動として、耐久レースでの勝利を目標に参戦を決定します。 それは世界GP参戦終了から9年ぶりとなる、ホンダ本社によるファクトリー参戦であり「HERT(ホンダ・エンデュランス・レーシン・グチーム)」が組織されます。
当時の耐久レースは車両規則が緩く、レース専用マシン(耐久レースではリタイヤが多かった)も出場可能でした。しかしプロジェクトのGOサインから初レースまではたったの半年。開発期間短縮のため「CB750フォア」のエンジンをベースにして設計が始まりました。 目標の最高出力100psを達成するためにシリンダーから上部は新設計のDOHC4バルブとなり、カムシャフトの駆動はセミギアトレイン、さらに1次減速もギア駆動に変更され、結果的には「CB750フォア」との共通部分が少ない、ほぼオリジナルのスペシャルエンジンとなりました。 たった半年間で完成できたのは、ファクトリー活動停止後も、デイトナ200や国内レースで「CB750フォア」を使うレーサー達にチューニングエンジンを提供しており、勘所を熟知していたからでした。 車体は1960年代のホンダのGPレーサーを参考に、エンジンを囲むようにダブルクレードル化したフレームとなりました。 ホンダとしては「CB」シリーズの売り上げを伸ばすための参戦ですから、「次世代CB」のプロトタイプで他社のライバル車と対決することになったのは宿命だったのかもしれません。HERTが開発したそのマシンの名前は「レーシング」の「CB」を意味する「RCB1000」となりました。