「托卵」を納得させた“用意周到”な構造 『わたしの宝物』がトリッキーな不倫ドラマにならなかった理由
■冬月の“自由さ”がもたらした説得力 ここで忘れてはならないのは、“元サヤ”決着をより鮮明にさせてくれた“本当の父”である冬月(深澤辰哉)の存在だ。 “元サヤ”に収まるために必要だったのは、美羽と宏樹が持っていた“明確なもの”…今の家族と暮らしたい…というその思いだった。しかし冬月に至ってはその“明確なもの”が最後の最後まで見えず、“本当の父”である冬月こそが美羽と幸せになる権利があるのではとも思わせるところだった。 ところが、最終回でようやく冬月の“明確なもの”が見えた。それは彼の純粋過ぎる“自由さ”だ。誰にも寄せ付けない信念とも言い換えられるが、仕事にも恋愛にも生き様にも、とてつもない“自由さ”があり、だからこそ今回の結末である、“実の父”ではあるが“本当の父”ではないという考えから身を引き見守るという選択に対し、大いに説得力をもたらしたのだ。 あの冬月の身勝手ではない純粋な“自由さ”がなければ、視聴者は彼に父としての責任があるのではないかと糾弾しただろう。そしてそのキャラクターが実に現代的であり、今だからこそより理解できる存在になったのではないだろうか。 とはいえ、今作の“結末”に納得いかない視聴者も多くいるだろう。だが、全10話にわたって仕掛けられた衝撃の数々とともに、喜怒哀楽を共有することで、見たくない…けれど見たいと思わせたのは…エンタテインメントでありながら、時に自分に置き換え“考えさせられる”、その2つが両立していたからではないか。それほどに今作は、視聴者を巻き込む力強さがあったのだ。
「テレビ視聴しつ」室長・大石庸平