【世界の野球(8)】震災で変わり果てた故郷で、自分だけの道を探す
2011年の東日本大震災後に対戦した、宮城県石巻市の日本製紙野球部との試合のようす
【連載・色川冬馬の世界の野球~アメリカ編(8)~】 2015年から、野球のパキスタン代表監督を日本人の色川冬馬さん(26)が務めている。選手としてアメリカの独立リーグやプエルトリコ、メキシコのリーグでプレーし、その後代表監督としてイラン、パキスタンを指揮した色川さん。これまでの経験を通じて世界各地の野球文化や事情を紹介するとともに、日本野球のあるべき姿を探っていく。
生まれ育った街の変貌した姿に唖然
2011年3月16日、私は日本に戻った。しかし、東京から自力で仙台に帰るすべがなく、大学でお世話になっていた東京の恩師の家に泊めてもらっていた。すぐに仙台に戻りたい思いはあったが「一人でも多くの人を助けるために東京にいなさい」と恩師に言われたのをよく覚えている。 3月21日、支援物資を車いっぱいに乗せた恩師の車で仙台に帰ることができた。戻った翌日から、私は津波で被災した叔父の自動車整備工場の復旧の手伝いをしていた。生まれ育った街の変貌した姿に、唖然とするしかなかった。 私の自宅も仙台市内にあるが、水、電気の復旧に1週間、ガスの復旧には1カ月以上かかった。食材や生活用品の買い物も困難を強いられ、ガソリンが手に入らないことが一番大変だった。震災後、東北ではガソリンを小まめに満タンにしようと呼びかけている。いつ、どこで、このような震災が起こるか分からない日本で、読者の皆様にも万が一に備え可能な限りガソリンの給油を小まめにすることをお願いしたい。
アメリカの球団を辞退し、大学復学を決断
仙台へ戻り、普段であればアメリカへの渡航に向け、練習、トレーニング、そしてバイトをするのが毎回のお決まりだったが、私は復学に向け動いていた。そして4月、私は入団が決まっていた球団に、アメリカに戻らない旨のメールを送った。 震災があったから、アメリカに行かなかったのではない。震災を機会に、私なりにこれまでのこと、そして今後のことを必死に考えた結果の、前向きな決断だった。この時までは、「大学を辞めてアメリカで野球をする」ということを一番に考えていたが、アメリカで野球選手としての限界を知り、「野球することだけがすべてではない」とも考えていた。