愛された“霊長類最強女子”吉田沙保里が引退表明。伝説と人知れぬ苦悩
2016年リオデジャネイロ五輪を最後に公式戦から遠ざかっていた女子レスリングの吉田沙保里(36)が、現役引退をSNSなどで発表した。レスリング選手としての吉田を振り返るとき、五輪3連覇、世界16連覇などの記録や“霊長類最強女子”といった形容が中心になりがちだが、彼女を希有な存在たらしめた最大の要因は、やはり底抜けに明るいキャラクターにあるだろう。 「切り替えが早く気分転換がうまい。そして、とにかく明るい」 世界選手権を初制覇したあと、大学入学と同時に指導にあたった栄和人氏に吉田の特長を尋ねると、まずその性質をあげた。偏食で小食だから、計量後に食べる食事にも気を遣うんだよとこぼしながら、冗談を言って笑い合える教え子が日に日にたくましく、強くなっていくのが楽しみだと目を輝かせていた。 女子レスリングが初めて公式種目となった2004年アテネ五輪、金メダルをとってすぐ、吉田は「北京五輪も金で」と連覇を口にした。この発言が嫌みに聞こえなかったのは、彼女の人なつっこい、からりとした陽気な声のおかげだろう。 マットの上以外では、初めての五輪を満喫。有名選手と会えば写真撮影をおねだりし、IDカード入れに写真を入れてコレクションを増やしていた。シンクロナイズスイミング(アーティスティックスイミング)の井村雅代コーチとも、いつの間にか軽口を叩きあうような関係になり、シンクロ選手から「私たちだったら、あんなこと言えない」と驚かれた。 「あの子はね、すごく得な性格」 周囲から気難しいと思われている人が相手でもするすると近づき、いつの間にか談笑している吉田をこう評したのは、母の幸代さん。小さな頃から大人に囲まれる機会が多く、三兄妹の末っ子だからか、ごく自然に目上の人の懐に飛び込んでいた。作らない無邪気さとまっすぐさが、言葉と態度からあふれているからだろうか。かつて所属していたALSOKのコメディタッチなCMに出演したときも、他の選手では幹部からの許可は出なかっただろうと評されていた。 「どんなときも変わらない。裏表がない」 大学入学時のレスリング部主将だった怜那さんは、3学年下の吉田と大親友になった理由を、そう答えた。 レスリング部員達は寮生活を送っている。同じ目標をともにする仲間との共同生活は、基本的に和気藹々としている。しかし、試合で対戦するかもしれない相手も含めて生活をともにしていると、マットを降りても、周囲に対し疑心暗鬼になる時間がやってくる。取り越し苦労だと分かっていても、心のどこかにそういう感情は残るものだ。ところが、吉田は“純”だった。 自分の目で実際に見て、聞いて、体験したものだけを素直に受け取って判断し、その他の雑音に影響されることはない。 それは取材者に対しても同じで、記者やカメラマンを前にして、吉田本人が態度に裏表を見せることは一度としてなかった。他意のない無邪気さは徹底していて、世界選手権の表彰式後に、ドーピングについてコーチから確認されて「おしっこ、すぐ出たよ!」と大きな声であっけらかんと答えたのには驚かされた。これはロンドン五輪の2年後のことで、吉田自身には女王の堂々たる風格が備わっていたが、ときどき飛び出す子供のような言葉が、かわいらしく映った。