愛された“霊長類最強女子”吉田沙保里が引退表明。伝説と人知れぬ苦悩
「イケメンは、みんな自分のことを好きだと思っとるのよ」
「イケメンは、みんな自分のことを好きだと思っとるのよ」 冗談交じりで五輪3連覇をした女王のイケメン好きを評したのは、亡くなった父の栄勝さんだった。国民栄誉賞受賞が決まったあとのことで、「勝っている、いいときに辞めなきゃダメ。国民栄誉賞をもらうって、そういうことでしょう。王も長島もいいときに辞めているんだから」と、娘の将来への希望を語っていた。 2016年リオデジャネイロ五輪で、母の幸代さんは「これが最後だから」と口にした。前年の世界選手権では優勝したものの、試合後に「怖かった」と繰り返した娘は、「試合前の緊張が、本当に嫌」だと母に漏らすようになっていた。 切り替えが早く、気分転換がうまい吉田でも、いつまでも強い緊張を強いられる試合を続けられるわけではない。東京で開催される五輪に未練はあるだろう。だが、終わりの時は近づいていた。 それでも引退ということばを自ら宣言するには、ためらいがあったらしい。 「引退って、言わなければいけないの?」 一昨年頃から、吉田の周辺からはそんな言葉も聞こえてきた。ダルビッシュの妻となった山本聖子もテレビで見る機会が増えた浜口京子も、実は、現役引退宣言はしていない。 3歳から始めて生きることと分かちがたく結びついたレスリングを、なぜ、わざわざ引退すると言わなければならないのか。でも女子レスリングを象徴する存在となった自分は、何らかの宣言をするべきなのか。迷った末に、今回の現役引退発表にたどりついた。 現役を引退したあとの吉田は、指導者になるのだろうか。日本代表選手のメンタル面をサポートすることに主眼をおけば、きっと、よいコーチになるだろう。なぜ条件付きになるのかというと、周囲の誰もが認める彼女の美学に理由がある。 後輩たちや母の幸代さんなど、吉田を近くで見てきた人ほど「選手を鍛え上げて強くするコーチには向いていない」という。自分に対して厳しく追い込んだ練習をすることはできるが、人に厳しくすることができないからだ。冷徹な指導者になるには、優しすぎるらしい。 一方で、彼女にしかできないこともある。どんなに厳しい練習をしていても、ケラケラ笑ってやり遂げるのだ。 「しんどい!」と言いながら、笑っている。吉田を中心に、他の選手もつられて練習の強度をあげつつケラケラ笑うのが、全日本合宿では恒例の光景だった。昨年、アジア大会で初めて女子レスリングが金メダル0個に終わった後、いくつか挙げられた「足りないもの」のうちのひとつに、明るく笑いながら高い強度の練習を続けることも含まれていた。 世界一を目指すアスリートというと眉間にしわを寄せた深刻な顔をした求道者のような雰囲気を想像されることが多かった。それが格闘家になると、なおさらだったのだが、吉田は良い意味で、その期待を裏切り続けてくれた。 人から見えないところで悩んだこともあっただろう。リオ五輪には、腰の痛みがひかないまま現地入りしていたが、不安は少しも見せなかった。それは痩せ我慢ではなく、気分を換えて明るく乗り切る方法を、彼女は知っている。みずから編み出した試合にのぞむノウハウは、言葉で人に伝えられるものではないかもしれないが、ぜひ、何らかの方法で後輩たちに伝えてほしい。 (文責・横森綾/フリーライター)