ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』映像化で出版社と家族の板挟みとなり病院に運ばれて。「出版社が自分の漫画で何を企もうと仕方がない」風潮は今変わりつつある
42歳で描いた『テルマエ・ロマエ』が刊行されたとたん「人生が一変した」というマリさん。映像化を巡っては出版社と家族の意見の板挟みとなり、病院に運ばれる事態になったそうで――。(文・写真=ヤマザキマリ) 【写真】ペンを執るマリさん * * * * * * * ◆『テルマエ・ロマエ』刊行で人生が一変して 私が漫画の道を選んだのは、自分の専門だった油絵では生活できなかったからだ。イタリアでの暮らしが11年目になるころ、結婚もしていないのに子供が生まれ、いよいよ社会と接点のある仕事をしなければ、という決意と模索の結論が「漫画」だった。 それを人に言うと、「その選択おかしいでしょ」と笑われる。 まったくその通りなのだが、芸術性を重視する欧州の漫画“バンド・デシネ”と違い、経済生産性の高い日本の漫画は、自由や自分のペースが許されるような仕事ではないという知識だけは持っていた。だから漫画家という職種は、私としては立派な社会的仕事という認識だったのである。 28歳で初めて漫画を描き、生活費程度の原稿料が細々入ってくるくらいのやりくりができていたところまでは良かった。しかし、42歳で描いた『テルマエ・ロマエ』が刊行されたとたん、私の人生は一変した。 口コミで話題が広がり、版が重ねられ、数ヵ月後にはふたつの賞を受賞、それと同時に実写化の計画が進められた。私は当時ポルトガルで暮らしていたのだが、日本で起きていることへの実感も自覚も得られないまま、エンタメという巨大産業の引力に吸い込まれていった。
◆何かが変わったわけではなかった あまり思い出したくない過去だが、イタリア人の夫は、私が原作者でありながら映像化の詳細をほとんど知らされていないという事実と、諸々の契約を、こちら側の弁護士を介した審議もせずに許諾してしまったことを知って激怒した。 夫の怒りは、当時夫の勤め先だったシカゴ大学の法学部の先生まで介入してくる事態となり、日本の出版社と家族の意見の板挟みでもがいているうちに、私は急性胃潰瘍で病院に運ばれた。 黙っていても埒があかないので弁護士を雇い、問題点を顕在化させることにしたが、その結果、私は外国住まいの強烈な漫画家というイメージを極めただけで、何かが変わったわけではなかった。
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