所信表明演説でわかった「石破茂」が当選できた本当の理由《石破最新刊の編者が明かす》
針のむしろの日々
多分、石破はそういう生き方もあるかな、と思ったはずである。首相への道は後景に遠のいた。20人いた水月会メンバーが櫛の歯が抜けるように減っていくことに有効な手立てを講じることもなかった。前回21年の総裁選では、自らは立たず河野太郎を応援、若手を育てる、という方向に切り替えた。はずではあったが、今回五度目の決断をすることになった。政治とカネ、政治改革であるならば、最後のご奉公ができると思い、いったん諦めかけていた首相への道が、再び見えてきたからだ。 総裁選を戦うというエネルギーは並大抵のものではない。ない金をそれなりに使わざるをえないし、心身の負担も尋常ならざるものがある。普通の政治家であれば人生一度の大勝負である。それに五度挑戦、最後に首座を射止めた。これをミラクルと言わずして何という。大谷翔平並みの記録である。 ミラクルの第二は、離党経験者の首相就任である。長年政権政党にあった自民党議員にとって、一回でも離党した人間は裏切り者となる。その復党を拒否するわけではないが、徹底的に干されるのがその常となる。 石破がその右代表であった。 細川護熙政権下の1993年秋に野党自民党を離党した。その選挙制度改革に後ろ向きな姿勢が我慢できなかった。その後、新生党、新進党に移るが、今度は同党選挙公約にあった外交安保、財政政策の内容に賛同できず離党、97年3月自民党に復党した。 石破からすると、自民離党は、リクルート事件を受け、金のかかる政治を排し本格的な政権交代を行うための制度改革に熱心に取り組んだゆえのものであり、復党はまた、集団的自衛権の解釈、消費増税の是非、という基幹的な政策で、いずれも、より自分の考えに近い政党を選び直しただけであり、いずれも合理的な理由に基づいたものであった。 だが、そんな言い訳は自民党内では通用しなかった。 どうにも居場所がない。どこに行っても、あの自民党を壊した小沢一郎と一緒になって離党した石破だ、という目で見られてしまった。「文字通り針の筵のような心境というものを人生で初めて感じた」と石破は振り返る。 そんな中で石破は、もう一回安全保障の勉強をやり直そうと決断、その研鑽の成果が生きて、防衛庁長官、防衛相歴任を通じ、今の石破の基礎を作ったわけである。 自民党には、離党者は総理になれぬというジンクスがある。自民党総裁にまで上り詰めた河野洋平がそうだった。新自由クラブを結成し自民党を離党したとのキャリアが最後まで邪魔した、ということになっている。石破が四度の総裁選チャレンジの失敗でそのジンクスをさらに固めた。だが、今回自らそれを劇的に撃ち破った。これまたミラクルと言っていいであろう。