無人島に持っていきたい、累計800万部・世界の美術家が認める“世界一売れている”美術鑑賞の本
これも画家が伝えたいことを描くのが絵なのか、客観的にリアルに描写するのが絵なのかという議論の教材として、ピカソが描いた2つの鶏の絵を例に出している。 左ページはビュフォンの『博物誌』にもとづく挿絵本のためにピカソが付けたエッチングだ。ここでの解説はこうだ。 「(左の)雌鶏とよちよち歩きのひよこを描いたこの魅力的な絵に、文句をつける人はまずいないだろう。しかし、図12(右)はまったく感じがちがう。若い雄鶏を描くのに、ピカソは鳥の姿を写しだすだけでは満足できなかった。彼は、雄鶏の攻撃性と図々しさと愚かさを際立たせたかった。」 ここから解説は、2つの留意点を導く。まず、画家が見た物の姿を変形するのには、それなりの理由があったのではないかということ、もう一つは、自分が正しく、画家が間違っていると確信できないならば、不正確な描写であると作品を非難するべきではないということ。
次のグイード・レーニ《荊冠のキリスト》(左)と中世イタリア、トスカーナの画家の描いた《キリストの頭部》(右)のどちらもキリストの磔刑の場面だが、技術としてはレーニの方が上だとしても絵は好き嫌いで選んでいいという話。 これについて著者は「レーニの絵ほど感情表現があからさまでない作品の方を、かえって好きになることもある。言葉数が少なく、身ぶりが控え目で、奥ゆかしい人物を好ましく思う人がいるように、いろいろ考えさせられるような絵や彫刻の方が好きだという人がいてもおかしくない」と語る。
テオドール・ジェリコーの競馬の絵が、それから50年ほど後のエドワード・マイブリッジの写真によって、思い違いが明らかにされた例がこれだ。 以上、紹介したのは、「序章|美術とその作り手たち」からのもので、絵というもの、絵を描く人々について語る部分になっていて、ここからいきなり、読む側の興味をぐいぐい引きつけてくる。本書は28章に分かれていて、序章のあとは基本的に編年体の構成をとっている。およそ1万5千年前の先史時代洞窟の壁画から始まり、エジプト、メソポタミア、クレタの美術の話をし、ギリシャ、ローマへと繋がっていく。そうして、美術の長い物語が語られ、サルヴァドール・ダリ、ジャクソン・ポロック、デイヴィッド・ホックニーの作品などで終わる。 どんな時代のいかなる作品を取り上げるにしても、これは著者の方針だったのだろう、専門用語に頼らない解説を心がけていて、そのことは美術史の専門家からも評価されている。また、美術家たちもこの本に出会い、その後の人生があったことを語っている。世界文化賞を受賞した英国の画家、ブリジット・ライリーは19歳の画学生のときに読んだという。 「愛と学識、明晰さと洞察力に満ちたこの本は、美術を鑑賞するための礎石として今も存在している」。 また同じく英国の彫刻家でターナー賞も受賞しているアントニー・ゴームリーは15歳で読んだという。 「人間のさまざまな経験のなかで、美術こそがその中心に位置を占めると感じるようになった」。 大きな判型で、図版と解説が一緒になった卓上版を家で眺めたり読んだりして、旅行などのときにポケット版を持ち歩くのがいいかもしれない。そのまま、無人島に漂流しても、この1冊があれば……である。それはともかく、電子版があれば理想的だ。かなりの容量になりそうだが。 ゴンブリッチ卿はこんな言葉も述べている。 「美術の学習に終わりはない。つねに新しい発見がある。すぐれた美術作品は、見るたびにちがった顔を見せてくれる。どこか計り知れないところがあり、その点では生身の人間と変わらない。独自の不思議な法則につらぬかれ、独自の冒険へと人を誘う、わくわくするような独自の世界がそこにある。美術についてすべて知ってるなどと思ってはならない。そんな人はどこにもいない。なにより大切なのは、美術作品を楽しむには新鮮な心をもたなければならないということだ。ちょっとした手がかりも見逃さず、隠れた調和にも反応する心をもたなければならない。」