権力をめぐり兄・頼通と対立した藤原教通
■父・道長から「ヨキ子」と評されていた 藤原教通(のりみち)は996(正暦3)年に、藤原道長の五男として生まれた。母は左大臣を務めた源雅信の長女である源倫子(ともこ/りんし)。同じ母を持つ姉に藤原彰子、藤原妍子、兄に藤原頼通、妹に藤原威子、藤原嬉子(よしこ/きし)がいる。 1006(寛弘3)年に元服。1010(寛弘7)年には従三位となり、15歳で公卿に列した。以降、兄の頼通と同様に華々しい出世を遂げている。1012(寛弘9)年には藤原公任の娘と結婚。1016(長和5)年前後に、和泉式部の娘との間に子どもをもうけた。 権中納言、権大納言を経て、1021(治安元)年に内大臣に就任。これを機に教通は、娘の生子(せいし/なりこ)を敦良親王に入内させようとしたが、失敗に終わった。道長・頼通父子の反対を受けたという。1030(長元3)年にも後一条天皇に生子を入内させようとしたが、今度は母の倫子や頼通、威子に反対された。父の道長が死去した2年後のことである。 ようやく生子の入内がかなったのは1039(長暦3)年のこと。頼通の反対を押し切り、後朱雀天皇に入内させている。子のなかった兄を尻目に、天皇外戚の立場を得ようとしたものだが、思惑とは裏腹に、後朱雀天皇との夫婦仲が良好だったのにもかかわらず、生子が皇子を産むことはなかった。 1047(永承2)年に右大臣、1059(康平2)年に左大臣を歴任。1068(治暦4)年には頼通に譲られる形で関白に就任した。多少の反目や、外戚の座をめぐる争いはあったにせよ、この頃までの教通は、頼通を立てる従順な弟だったと伝わっている。 関白交代は教通の娘が後冷泉(ごれいぜい)天皇の女御となったことがきっかけのようだが、すでに教通は70歳を超えていた。当時としては稀に見る長寿だったとはいえ、権力を振るうにはいささか年齢を取りすぎたといえる。さらには、それからわずか2日後に後冷泉天皇が崩御してしまう。 その後に即位したのは後三条天皇だった。皇太子の時に頼通からさまざまな圧迫を受けていた後三条天皇は、藤原氏に反発が強かったとされている。 藤原氏の力を抑制するため、後三条天皇は自ら政を行なう親政を推し進めた。そのため、関白としての教通の権限はかなり制限されたものとなったようだ。 一方で、関白を譲る条件として、頼通は息子・藤原師実(もろざね)が成長したら関白を譲ることと約束させていたが、教通が応じる気配はなかった。教通は自身の子である藤原信長に譲ることを画策していたらしい。 こうした対立を抱えたまま、頼通は1074(延久6)年2月に死去。同年10月には、道長の娘で国母の彰子(上東門院)も薨去(こうきょ)し、翌1075(承保2)年9月に、兄姉の後を追うように教通も亡くなっている。享年80。 教通の死後、生前の頼通の希望通りに師実が関白に就任。しかし、後三条天皇の進めた親政や、藤原氏全盛期を取り仕切ってきた道長、彰子、頼通が世を去ったことにより、摂関政治はほとんど力を失った。 なお、父の道長は教通を「ヨキ子」と評価していたという(『愚管抄』)。また、故実に卓越した知識を持っていた教通は、『二東記』という日記を残した。『二東記』は、摂関家の日常や貴族社会の儀式などを知る上で重要な史料として、今日も研究が続けられている。
小野 雅彦