西洋絵画の裸婦は公序良俗に反する? 藝大教授が語る「ヌードとネイキッド」の違い
西洋の裸婦はフェティッシュなもの?
――フェティッシュな作品というと、西洋絵画でよく描かれる裸婦はどうなのでしょう? 日本では、裸婦を描いた絵画が明治時代に大問題になりました。黒田清輝が描いた《裸体婦人像》は下半身を布で隠されて展示されたことがあります。 ヌード(Nude)とネイキッド(Naked)は似ているようで違う概念です。ネイキッドはむき出しの裸という意味で生々しくて、時にエロティックでもあります。 ですが、ヌードは理想化された裸体像なのです。女性のヌードを描く時に陰毛を表現しないことが多いのはそのためでしょう。生の裸を再現しているわけではなく、裸という美しいオブジェを神話に絡めて表現する、古代ギリシャから続く理想的身体表現の系譜に連なっている裸体表現なわけです。だから鑑賞者も、そこに裸が描かれているけれど、生の裸としては認識していないというか。 しかし、日本にはそういう伝統がなかったので西洋文化が導入された時期のヌードは、公序良俗に反しているものとして非難されました。 現在ではヌードを問題にすることはないように思いがちです。ところが、10年ほど前のことですが鷹野隆大による「裸体の自分と男性」を撮影した写真作品に陰部が写っていて不快だという声が多く寄せられ、まるで明治時代のように「わいせつ物の陳列にあたる」として、美術展の会期途中から下半身を隠して展示されたこともありました。鑑賞者は、それはヌードではなく生身の男性裸体像、すなわちネイキッドとして認識したからわいせつと感じたのでしょう。 見る人を不安な気持ちにさせる剥き出しの裸を表現する作品が現れ始めたのは近代以降です。神話的なヌードから生身の人間の裸に移行したのは、レアリスムの流行とも関係しています。 芸術作品として展示されていても不快に感じ、いまだに下半身を隠すこともある。非常に複雑な文化的反応なので簡単に言い表すことは出来ませんが、日本人が明治時代の「裸体恐怖」から本質は変わっていないというのは興味深い事実です。 ――では、近代以前の裸婦を描いた作品にはエロティックな視線は入っていなかったということでしょうか? それはそうとも言い切れません。なかにはわざわざエロティックなヌードに仕上げているものもあります。例えばバロックの巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの《アポロとダフネ》を見ると、神話主題でありながら明らかエロティックな表現を試みています。宮廷の寝室や浴室などにエロティックな作品を飾りたいと考える国王や貴族もいたので、神話主題を選ぶことで、この作品は不道徳ではないと説明可能な隠れ蓑になっていたのです。 (取材・文/小林実央[PHPオンライン編集部])
佐藤直樹(東京藝術大学美術学部教授)