伝説のシンガー「ニーナ・シモンの噛んだガム」に魅了された人々の美しくも危うく、滑稽な実話語(レビュー)
タイトルを見て「?」と思うだろう。「ニーナ・シモン」は圧倒的な歌唱力を誇る伝説的シンガーだが、彼女の名に「ガム」がくっつくと奇妙な雰囲気になる。その奇妙さはそのまま本書の内容につながっている。 一九九九年七月、ロンドンのライブに出演する直前、ニーナは楽屋で車椅子に座ってガムを噛んでいた。その後、自分の足でゆっくりステージにでていき、噛んでいたガムを口からだしてピアノの上に置いて歌いだす。さっきまで車椅子に座っていたとは思えない超人的なパワーを発揮し、宗教的ともスピリチュアルともいえる衝撃を見る者に与えた。 終了後、ステージに上がってそのガムを回収し、持ち帰った男がいた。ミュージシャンのウォーレン・エリス。本書を書いた当人である。 エリスはそのガムを護符のように大切に保管しつづけ、相棒のニック・ケイヴが関わる展覧会でそれを公開する決意をする。展示には本物を出したいが、紛失した場合を考えると恐ろしくなり、レプリカを造る。その作業に関わった人々の集中力と献身ぶりは本書の読みどころだ。 エリスは物を捨てられないタイプだが、その物とは「自分の領域やつながりのある人々の外では、何の意味も持たないもの」だ。ニーナ・シモンのガムはその典型だが、彼からガムの話を聞かされた者は魅了され、特別な精神状態に引き込まれていく。 「なにか、ガムの周りが、大きくなっていくのを感じた。この小さな物体の周りに、もっと大きなストーリーが、トルネードのように集まってきていた」 エリスに拾われなければゴミと化したガムが人と人をつなぎ、エネルギーを生み出していく。それは金塊のような実体あるものの価値とちがい、人々がストーリーを信じることから生まれるものだ。美しくもあり、危うくもあり、滑稽でもある。そのもろ刃の剣のようなパワーと情熱が芸術の本性だと物語っている。 [レビュアー]大竹昭子(作家) おおたけあきこ1950年東京生まれ。作家。小説、エッセイ、批評など、ジャンルを横断して執筆。小説に『図鑑少年』『随時見学可』『鼠京トーキョー』、写真関係に『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨーク1980』『出来事と写真』(共著)など。朝日新聞書評委員。朗読イベント「カタリココ」を開催中。[→]大竹昭子のカタリココ 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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