「出会って、別れて、また付き合って……」 夫が死去「ピンクレディー」ケイちゃんが語っていた夫婦の絆
義兄に急かされて
彼女の理解者であった桑木さんの母親も亡くなってしまった。それでも2人の友達づきあいは続いたという。そんな中、桑木さんが離婚する。 《別れたともずっと友達でしたが、その時はお付き合いしていたわけではありません。でも皆幸せになるべく生きているわけで、私もこの年になると、その思いが破れた時の傷の深さは余りある。(私も)苦しかったですね》(同) 焼けぼっくいに火がついた2人を放っておかなかったのは、桑木さんの家族だった。 《4月に彼と彼のお兄ちゃま夫婦とお食事をしていたら“それでいつ結婚するの”と訊かれ、彼が“来年春には”と答えたのです。その時初めて彼がそう思っていたことを知ったので、そうなんだあと嬉しかったのですが、“もういい年なんだから、のんびりしないですぐにしなさい”と。6月の花嫁は幸せになるといいますし、大安の日曜日が23日だったのでこの日に急遽決まりました》(同) 桑木さんは当時、音響制作会社の社長になっていた。2人の交際はそれまで全く知られていなかったため、“電撃挙式”と報じられた。その後、桑木さんの会社が自己破産するなど様々な試練に見舞われたが、2人が別れることはなかった。芸能記者は言う。
増田の生い立ち
「2人の信頼関係の深さはもちろんですが、彼女の生い立ちも影響していると思います。増田は2歳の時に交通事故で父親を失い、シングルマザーとなった母親が、当時、小学生の兄と幼稚園児の姉とともに3人の子供を育てることになりました。しかし、女手ひとつではやはり厳しかったのでしょう。悩んだ挙げ句、子供のいなかった姉夫婦に彼女を託すことにしたんです」 小学校1年の時に伯母夫婦の養女となるのだが、家庭裁判所でのやり取りを彼女はよく覚えている。別のインタビューでこう話している。 《裁判所の偉い人に“キミの人生だから自分で決めなさい”と言われたんですけど、後ろに母と伯母夫婦がいるでしょ。もしここで、家に帰ると言ったらきっと伯母たちは寂しいだろうな。それに、お母さんはうれしいかもしれないけれど、もしかしたら迷惑なのかなって小さな頭で本当にいろいろ考えました。でも、いずれお嫁さんに行ったら名字は変わるだろうし、別に行き来できないわけじゃないからって、伯母夫婦の籍に入ることを決めたんです》(「マイ・フォーティーズ」02年12月号) 高校を卒業した彼女は前述の通りピンクレディーとして絶大な人気を得る。多忙な中でも恋愛はあった。だが、その恋も破局する。