「偉い人の逃げ足は速い」ソ連軍の奇襲をよそに、民間人を見捨てて姿を消した日本軍と憲兵隊 #戦争の記憶
民間人を見捨てて姿を消した、軍と憲兵隊
北村は翌10日午前、要塞司令部を訪ね、司令官と再び会う。司令官は幕僚と司令部庁舎前に集まり、「何事か協議中」(北村の手記)だった。 北村があらためて市民の措置について意見を質すと、司令官は「まだ市民の避難は時機でない。おそらく、もう停戦命令が下りるであろう」と、前日と変わらぬ考えを示したという。 このころ、軍は憲兵隊と共に、府民に知られないように姿を消していた。「軍機保持のため」と、その理由を後に明らかにしている。 北村が住民に避難命令を出したのは10日午後2時のことだった。避難の遅れは100人を超す民間人の犠牲を生んだ。 ※張鼓峰事件……1938年7月にソ連・満州国境付近の張鼓峰で起きた日ソ両軍の軍事衝突で、日本軍は多大な犠牲を出した。両軍は翌月になって停戦。 *** 第1回の〈「日本人6万人」の命を救った”アウトサイダー”を知っていますか〉をはじめ、終戦で難民と化したきわめて過酷な状況下で、外交官・杉原千畝の「10倍」もの同胞を祖国に導いた「松村義士男」について、全9回にわたって紹介する。 ※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集。
デイリー新潮編集部
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